「愛の妙薬」の版間の差分

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* 原語曲名:''L'elisir d'amore''
* 台本:[[フェリーチェ・ロマーニ]]、もともとは[[ウジェーヌ・スクリーブ|スクリーブ]]が[[フランソワ・オーベール|オベール]]のために書いた『{{仮リンク|媚薬 (オペラ)|label=媚薬|es|Le philtre}}』''"Le philtre"'' の台本による
* 初演:[[1832年]][[5月12日]]、[[ミラノ]]のカノビアーナ劇場にて
 
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[[ミラノ]]のカノビアーナ劇場では5月の舞台にオペラの新作を登場させるべく、ある作曲家に新作を依頼していたが、作業を突然放棄してしまった。期日まで1か月の短期間であったため、支配人アレサンドロ・ラナーリは速筆で知られていたドニゼッティに泣きつかんばかりに新作オペラを依頼した。
 
ドニゼッティの条件は、すでにオペラ『[[アンナ・ボレーナ]]』で作業を共にしていた人気台本作家ロマーニ(当然、彼もまた速筆であった)を使って1週間程度で台本を得ることであった。しかしロマーニといえどもこの短期間に白紙から台本を起こすことは不可能だったものと見え、彼は前年[[パリ]]でスクリーブがオベールのために書いたオペラ台本([[リブレット (音楽)|リブレット]])『媚薬』 ''"Le philtre"'' を[[翻案]]し、田舎の村で起きた他愛もない恋愛喜劇2幕物を書き上げた。ドニゼッティはその台本にわずか2週間で作曲したという。前年の[[1831年]]、同じミラノで[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]が、やはり田舎村での恋愛騒動を描いたオペラ『[[{{仮リンク|夢遊病の女]]|en|La sonnambula}}』(''La sonnambula'')を成功させていたことも、ドニゼッティとロマーニの念頭にあったとも考えられる。
 
劇場の願い通り、オペラは5月の舞台に間に合ったばかりか、初演から30回以上の再演を数える大ヒットとなって、ドニゼッティは一段と盛名を馳せることとなった。