「ナチス・ドイツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
正式な国名はドイツ国(大ドイツ国)です
タグ: 取り消し
lk調整
53行目:
1933年1月30日、[[ヴァイマル共和政]]の[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツ国大統領|大統領]]により、ヒトラーは[[ドイツ国首相]]に任命された。まもなく大統領令と[[全権委任法]]によって憲法を事実上停止したうえに、対立政党の禁止や[[長いナイフの夜]]による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった<ref> [[南利明 (法学者)|南利明]]『[http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3574/1/090603026.pdf 〈論説〉指導者‐国家‐憲法体制の構成]』[[静岡大学]]法政研究第7巻3号</ref>。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で[[総統]]と呼ばれる。[[世界恐慌]]の後、ナチスは経済的安定を回復させ、多額の軍事支出及び[[混合経済]]を用いて大量失業を解消した([[ナチス・ドイツの経済]])。広範囲にわたる公共事業には、高速道路の[[アウトバーン]]建設が含まれていた。
 
[[人種主義]]、特に[[反ユダヤ主義]]は、同政権の中心的特徴であった。[[ゲルマン人]] ([[北方人種]]) は、最も純粋な[[アーリアン学説|アーリア人種]]ひいては{{仮リンク|支配人種|en|Master race}}だと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は[[ナチスの女性政策|奪われた]]。娯楽及び旅行は[[歓喜力行団]]のプログラムにより組織化された。[[ナチスのプロパガンダ|宣伝]]大臣の[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は[[頽廃芸術]]として禁止又は抑圧した。[[1936年ベルリンオリンピック|1936年夏季オリンピック]]により国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「[[第三帝国]]」であるとアピールされた。
 
ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、[[オーストリア]]及び[[チェコスロバキア]]を占拠した。ヒトラーは[[ヨシフ・スターリン]]と[[独ソ不可侵条約|条約]]を結び、1939年9月に[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。[[イタリア王国]]及び東欧諸国と同盟を結び([[枢軸国]])、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し、イギリスを脅かした。ポーランドのドイツ領に併合されなかった地域には[[ポーランド総督府]]が設立された。1941年の[[ソビエト連邦]]への[[バルバロッサ作戦|ドイツの侵攻開始]]後、ドイツとソ連は壮絶な[[独ソ戦]]の死闘を繰り広げた。[[東部占領地域]]は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する[[反ナチ運動|反対勢力]]は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万もの[[ユダヤ人]]及び好ましくないと見なされた[[生きるに値しない命]]を[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]及び[[絶滅収容所]]へ投獄、殺害した[[ホロコースト]]において頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月の[[ノルマンディー上陸作戦|フランスへの連合国の侵攻]]後、ドイツは東西の[[連合国 (第二次世界大戦)|他の連合国]]によって制圧された。[[ベルリン攻防戦]]が行われる最中の1945年4月30日の[[アドルフ・ヒトラーの死|ヒトラーの自殺]]によってナチス政権は事実上崩壊し、5月8日[[ドイツ国防軍]]が署名した降伏文書が発効したことによって、ナチス・ドイツ体制は完全に終焉した([[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)]])。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった([[ネロ指令]])。戦勝した連合国は[[非ナチ化]]政策を開始し、多くのナチス指導者の残党を戦争犯罪で[[ニュルンベルク裁判]]の公判に付した。
110行目:
;[[1936年]]
* [[3月7日]] [[ラインラント進駐]]。
* [[8月1日]] [[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]開幕
;[[1937年]]
* [[11月5日]] ヒトラーが軍幹部と外相[[コンスタンティン・フォン・ノイラート|ノイラート]]を集めた会議で戦争計画を語る。([[ホスバッハ覚書]])
184行目:
 
=== 支配の強化 ===
[[1935年]]にはヴェルサイユ条約の破棄と[[ドイツ再軍備宣言|再軍備を宣言した]]。ヒトラーは[[アウトバーン]]などの[[公共事業]]に力を入れ、壊滅状態にあった[[ナチス・ドイツの経済|ドイツ経済]]を立て直した。一方で、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]のような[[少数民族]]の[[迫害]]など[[独裁政治]]を推し進めた。[[1936年]]にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって[[非武装地帯]]となっていた[[ラインラント]]に進駐した([[ラインラント進駐]])。同年には国家の威信を賭けた[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]が行われた。また、[[1938年]]には最後の党外大勢力である[[ドイツ国防軍]]の首脳をスキャンダルで失脚させ([[ブロンベルク罷免事件]])、軍の支配権も確立した。
 
外交においては“劣等民族”とされた[[スラブ人]]国家の[[ソビエト連邦|ソ連]]を[[反共]]イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。アジアにおいては[[リッベントロップ]]外相の影響もあり、伝統的に協力関係([[中独合作]])であった[[中華民国]](中国)から[[国益]]の似通う[[日本]]へと友好国を切り替えた。1936年には[[日独防共協定]]を締結。[[1938年]]には[[満州国]]を正式に承認し、中華民国のドイツ[[軍事顧問|軍事顧問団]]を召還した。[[1940年]]9月には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を[[仮想敵国]]として[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。
311行目:
=== 社会政策 ===
[[File:Nurembergracechart.jpg|thumb|ナチス・ドイツの人種政策に用いられた[[疑似科学]]の人種区分を示す表]]
ナチス政権は[[人種主義]]を強く打ち出し、[[アーリア人種]]の優秀さを強調していた。このため人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。優秀なドイツ人を具現化するためとして[[スポーツ]]を推進し、[[1936年ベルリンオリンピック]]を国威高揚に利用した。また[[ナチス・ドイツの反タバコ運動|禁煙運動]]にも力を入れた。また芸術面では抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「[[退廃芸術]]」として嘲られた。
 
=== 迫害 ===