「八十村路通」の版間の差分

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路通は芭蕉との出会いの後[[江戸]][[深川区|深川]]の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ、『笈日記』によれば[[元禄]]元年(1688年)9月10日江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に[[宝井其角]]・[[服部嵐雪]]・[[越智越人]]等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。また、句が初めて見えるのは元禄2年([[1689年]])の『廣野』からで、元禄3年([[1690年]])『いつを昔』にも句が載っている<ref name="syomon"/>。
 
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)芭蕉が[[河合曾良]]を伴い「[[奥の細道]]」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出て近江湖南周辺を彷徨い、[[越前国|越前]][[敦賀]]に旅より戻った芭蕉を迎え、[[大垣]]まで同道したとされる<ref name="kijinkiwa"/>。芭蕉が故郷[[伊賀国|伊賀]]に帰ると、路通は[[住吉神社]]に千句奉納を行い[[近畿]]周辺を彷徨った後、元禄3年(1690年)には大津に出てきた芭蕉の下で[[濱田洒堂]]との唱和を行った<ref name="syomon"/>。その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年11月江戸に戻ると俳諧勧進を思い立ち翌元禄4年([[1691年]])5月『勧進帳』初巻を刊行した(初巻のみで終わる)<ref name="syomon"/>。『勧進帳』の内容は選集として一流と言え、同じ元禄4年(1691年)の『百人一句』に江戸にて一家を成せる者として[[北村季吟|季吟]]・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳的地位は相応に認められていた<ref name="syomon"/>。ただ『勧進帳』において「一日[[菅沼曲翠|曲翠]]を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い、また元禄4年(1691年)7月刊行された『[[猿蓑]]』において「いねいねと 人に言われつ 年の暮」と詠むなど、[[蕉門]]において疎まれていたことが伺える<ref name="syomon"/>。『勧進帳』出版の前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し寝食を共にしていたところ、[[向井去来]]の『旅寝論』によれば「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越人は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房([[各務支考|支考]])と許六なるべし」と語っている。許六は『本朝列伝』において、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している。
 
元禄6年([[1693年]])2月の芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ、また『歴代滑稽傳』に勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく三井寺に篭もったとされる<ref name="syomon"/>。元禄7年10月12日(新暦[[1694年]]11月28日)芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え破門を解いた<ref name="kijinkiwa"/>。