「ジョン・バカン」の版間の差分

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1935年8月10日にカナダ首相府は国王がバカンを総督の後任とするベネットの推薦を勅書によって承認したことを発表した。バカンはカナダに出発し、11月2日の式典でケベック州議会議事堂の赤の広間で宣誓した。バカンは[[ウェストミンスター憲章]]が施行されて以来、初めてのカナダ総督であり、[[枢密院 (カナダ)|カナダ枢密院]]において国王の名のもとに裁可する最初の人物となった。バカンは総督在任中も執筆を続けていたが、同時に総督の職務を重要なものだと考えており、着任当初からカナダ全土をくまなく訪れることを目標としていた<ref name=TCE />。その中には総督としては初めて北極圏地方を訪れることも含まれていた。彼は自分の職務について「総督というものは特別な地位の一つである。それというのもカナダ全土を知り、あらゆる住民を知ることがその職務であるからだ」と述べている。バカンはまた、大恐慌とそれが人口構成に与えた問題にもかかわらず、カナダ人独自のアイデンティティと国民の統合を奨励した<ref name=GGBuch/>。全てのカナダ人が彼の考え方に理解を示したわけではない。1937年に[[モントリオール]]で演説した際にはイギリス帝国の一体性を重んじる人々の怒りを買った。「カナダ人がまず忠誠を示すべき相手はイギリス連邦ではありません。カナダでありカナダ国王であるのです。」<ref>{{cite book| last=Smith| first=Janet Adam| title=John Buchan: a Biography| publisher=Little Brown and Company| year=1965| location=Boston| page=423}}</ref>この演説はモントリオール・ガゼット紙に「不忠」と書かれてしまった<ref>{{cite journal| title=Royal Visit| journal=Time| volume=IXX| issue=17| publisher=Time Inc.| location=New York| date=21 October 1957| url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,937945,00.html| issn=0040-781X| accessdate=9 February 2013}}</ref>。バカンはエスニック・グループが「個性を保持し、各々がカナダ国民としての特質に寄与するべき」であり「最強の国家は異なる人種集団から成り立っているもの」だとする考え方を再三唱えていた<ref>{{Cite news| last=Saunders| first=Doug| title=Canada's mistaken identity| newspaper=The Globe and Mail| date=27 June 2009| url=http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/columnists/doug-saunders/canadas-mistaken-identity/article1199074/| accessdate=9 February 2013}}</ref>。
 
1936年は王室にとって明らかに激動の1年だったとバカンは考えていた。1月下旬にジョージ5世が崩御し、長男で大衆的な人気があったエドワード[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]]が[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。その頃オタワの総督官邸である[[リドー・ホール]]には喪章が掲げられ、服喪期間中公式の行事はすべて中止された。年が変わらないうちに、新国王が離婚経験のあるアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を計画していることが明らかになり、各自治領でも反対論が噴出した。バカンは[[バッキンガム宮殿]]と時の[[イギリスの首相|イギリス首相]][[スタンリー・ボールドウィン]]にカナダ人国王に深く尊敬の念を抱いていることと、エドワードがシンプソンと結婚した場合に起こるであろう、カトリックとプロテスタント双方の宗教感情を害することを指摘した<ref name=Hubbard>{{cite book| last=Hubbard| first=R.H.| title=Rideau Hall| publisher=McGill-Queen's University Press| year=1977| location=Montreal and London| page=187| isbn=978-0-7735-0310-6}}</ref>。12月11日までにエドワードは弟の[[ジョージ6世 (イギリス王)|ヨーク公アルバート]]に賛成して退位することを決めた。カナダにおける王位継承順位は他の自治領と同じままだったため、バカンは退位について定めた英国本国の法律にカナダ政府として同意し、最終的には1937年にカナダ王位継承法を裁可することでこのことを追認した<ref>{{cite court| litigants=Tony O'Donohue v. Her Majesty the Queen in Right of Canada and Her Majesty the Queen in Right of the United Kingdom| vol=01-CV-217147CM| pinpoint=s. 34| court=Ontario Superior Court of Justice| date=26 June 2006| url=http://www.canlii.org/en/on/onsc/doc/2003/2003canlii41404/2003canlii41404.html}}</ref>。マッケンジー・キングが国王退位の報をもたらしたとき、彼は総督として3人の王を代表することになったとつぶやいている<ref>{{cite web| url=http://www.collectionscanada.gc.ca/databases/king/001059-119.02-e.php?&page_id_nbr=17484&interval=20&&&&&&&&PHPSESSID=bgajorjbf37d43pri9gimsmfv0| last=Library and Archives Canada| title=The Diaries of William Lyon Mackenzie King| publisher=Queen's Printer for Canada| page=562| year=2007| accessdate=9 February 2013}}</ref>。
 
1939年5月から6月にかけて国王夫妻はカナダを横断し、[[カナダ国王]]の立場で国賓として[[アメリカ合衆国]]に迎えられた。国王の歴訪は1937年の戴冠式以前からバカンによって構想されていたのだった。公式行事についての歴史家であるグスタヴ・ランクトットによればこの構想は「おそらく戴冠式のようにジョージ6世がカナダ国王というもう一つの肩書きを実感するだろうという認識から生まれたものだった」。