「フランキー堺」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
小林信彦の著書を出典として少し加筆。
55行目:
[[1946年]]8月の[[バレエ]]「[[白鳥の湖]]」日本初演(第一次[[東京バレエ団]])では男性ダンサーが足りず、立ち役は早稲田、慶應、上智の各大学の演劇部の学生が演じ、慶應大の学生だったフランキー堺も出演している。
 
大学時代から[[進駐軍]]のキャンプでバンド「シックスレモンズ」のジャズ・ドラマーとして演奏し、芸能界へ進む。芸名のフランキーは進駐軍相手に演奏を行うため通りがいいように名付けた。1954年に[[フランキー堺とシティ・スリッカーズ]]を結成して、[[スパイク・ジョーンズ (音楽)|スパイク・ジョーンズ]]をまねた[[冗談音楽]]を演奏<ref name="小林1982pp97-102">{{Cite book|和書|author=小林信彦|title=日本の喜劇人|publisher=新潮社|year=1982|edition=文庫版|origyear=1977|isbn=4-10-115804-5|pages=97-102|ref="小林1982pp97-102"}}</ref>。築地のクラブで演奏していると、俳優[[伴淳三郎]]と知り合い、念願の役者へ。
 
後に[[映画]]に進出して、『[[幕末太陽傳]]』『[[駅前シリーズ]]』など、喜劇を中心に出演。特に幕末太陽傳で左平次の演技が決定打となって、1957年の[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]主演男優賞を受賞する<ref name="小林1982pp97-102"/>。ブルーリボン賞受賞の弁では「今撮影している映画(『母三人』東宝,1958年)は、笑わせ役者から泣かせ役者に踏み出す第歩」と抱負を語った<ref name="小林1982pp97-102"/>。その後、[[BC級戦犯]]の悲劇を描いて[[テレビドラマ]]から映画にもなった『[[私は貝になりたい]]』、人情派[[検事]]の奮闘を描いた『[[赤かぶ検事奮戦記]]』などの社会派ドラマ、『[[幕末太陽傳]]』などの時代劇、そして『[[モスラ]]』や『[[世界大戦争]]』などの[[特撮]]まで、俳優としても幅広く活躍した。
 
また、[[クイズ番組]]『[[霊感ヤマカン第六感]]』の軽妙かつ温厚な[[司会]]で視聴者に親しまれた。
116行目:
* 名探偵アジャパー氏(1953年、[[新東宝]])- 与田輝夫とシックス・レモンズの一員
* 青春ジャズ娘(1953年、[[新東宝]])- ドラムの青木
* 愛のお荷物(1955年/日活)<ref name="小林1982pp97-102"/>
* [[初恋カナリア娘]](1955年、[[日活]])
* 丹下左膳 第一部 乾雲の巻、第二部 坤竜の巻、第三部 昇竜の巻(1956年、日活) - 鼓の与吉
* [[牛乳屋フランキー]](1956年、日活)<ref name="小林1982pp97-102"/>
* フランキー・ブーチャンのあゝ軍艦旗(1957年、日活)
* [[幕末太陽傳]](1957年、日活) - 主演・居残り佐平次<ref name="小林1982pp97-102"/>
* [[フランキーの宇宙人]](1957年、日活) - 主演 ※クライマックスでは一人14役を演じた
* [[駅前シリーズ]](1958 - 1969年、[[東宝]])
137 ⟶ 138行目:
* [[ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗]] (1964年、東宝)
* [[ラーメン大使]](1967年、大映)
* [[君も出世ができる]](1964年、東宝)<ref name="小林1982pp97-102"/>
* [[旅行シリーズ]](1968年 - 1972年、[[松竹|松竹大船]])
* [[売らいでか!#映画版|喜劇 “夫”売ります!!]](1968年、[[東映]])