「灰田勝彦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Challemoni (会話 | 投稿記録)
m →‎戦後の活躍: 曖昧さ回避(漏れ)
35行目:
 
=== 歌手デビュー ===
[[1936年]](昭和11年)に立教大学を卒業して、晴彦が所属する[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|日本ビクター]]と正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。[[1937年]]、ハワイ音楽にコミカルな詞をつけた「真赤な封筒」が初ヒットする。この頃より日中戦争の影響でレコード業界も戦時色が強くなったため、ハワイアンのみならず流行歌のレコーディングも行うようになる。しかし、佐々木俊一作曲の「雨の酒場」がヒットの兆しを見せていた最中、戦時下に相応しくないという理由で発売中止の処分を受けてしまう。
 
また、本業の歌手だけに止まらず、[[東宝]]系となるJOスタジオと俳優としても専属契約し、『たそがれの湖』でスクリーンにデビューした。しかし、同年の暮、映画「人生競馬」の撮影中に召集令状を受け取り、[[中華人民共和国|中国]]戦線に赴くこととなる。慣れない生活と気苦労から、重症の[[黄疸]]を患い、現地の野戦病院で静養したのち、内地に送還されて、九州の小倉、東京の大蔵陸軍病院で療養した。[[1939年]]に応召を解除され、同年暮れから歌手に復帰した。