「平清盛」の版間の差分

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ミウチ昇進説
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[[永久 (元号)|永久]]6年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]<ref>[[九条道家]]の日記『玉蘂』[[建暦]]元年3月14日条に「正月十八日」と誕生日が書かれている。</ref>([[1118年]][[2月10日]])、[[伊勢平氏]]の[[武家の棟梁|棟梁]]である[[平忠盛]]の長男として生まれる。出身地は京都府京都市という説が有力である。(実父は白河法皇という説もある。詳細[[#系譜|後述]])。生母は不明だが、もと[[白河天皇|白河法皇]]に仕えた[[女房]]で、忠盛の妻となった女性(『[[中右記]]』によると[[保安 (元号)|保安]]元年([[1120年]])没)である可能性が高い。『[[平家物語]]』の語り本系の諸本は清盛の生母を[[祇園女御]]としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている<ref>[[佐々木八郎]]は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している(『平家物語の研究』早稲田大学出版部、1948年)。</ref>。また、[[近江国]][[胡宮神社]]文書(『仏舎利相承系図』<ref>[http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/binmanji23.jpg 仏舎利相承図テクスト]</ref>)は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を[[猶子]]としたと記している。清盛が忠盛の[[正室]]の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず[[嫡男]]となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。
 
[[大治 (日本)|大治]]4年([[1129年]])正月に12歳で[[従五位|従五位下]]・[[兵衛府|左兵衛佐]]に叙任。これについて[[藤原宗忠|中御門宗忠]]は驚愕している<ref>「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『[[中右記]]』大治4年正月24日条</ref><ref>通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だった。</ref>。清盛は同年3月に[[石清水八幡宮|石清水]]臨時祭の舞人に選ばれるが<ref>『中右記』3月16日条</ref>、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・[[源有仁]]の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。また祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとのも当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、[[清華家]]でなければ任命されない令制最高職の[[太政大臣]]に任命されまで昇進したことから王家とのミウチ関係が当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実とし信じられていたゆえもいわれる<ref>[[元木泰雄]]『平清盛の闘い 幻の中世国家』(2001年、角川書店) kindle版 No.1037/3507</ref>。
 
若い頃は、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・[[池禅尼]]の従兄弟だった。[[高階基章]]の娘との間に[[平重盛|重盛]]・[[平基盛|基盛]]が生まれるが、死別したと推測される。[[保延]]3年([[1137年]])忠盛が[[熊野本宮大社|熊野本宮]]を造営した功により、清盛は[[肥後国|肥後]][[国司|守]]に任じられる。[[久安]]3年([[1147年]])、[[継室]]に迎えた[[平時子]]との間に[[平宗盛|宗盛]]が生まれる。時子の父・[[平時信]]は鳥羽法皇の判官代として、[[藤原顕頼|葉室顕頼]]・[[信西]]とともに院庁の実務を担当していた。