メインメニューを開く

差分

解消済み仮リンク アラゴン十字軍,プロヴァンス伯 の内部リンク化 ほか
}}
 
'''シチリア晩祷戦争'''(シチリアばんとうせんそう)は、[[1282年]]の[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]に対する「[[シチリアの晩祷]]」に始まり、[[1302年]]の[[カルタベッロッタの和平]]で終わった[[中世]]ヨーロッパの戦争。争いは、[[教皇|ローマ教皇]]より支援を受けた[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の王位請求者であるシャルル・ダンジューとその息子[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル2世]]、[[フランス王国|フランス]]の[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世大胆王]]並びにその関係者と、[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世大王]]をはじめとする[[アラゴン連合王国|アラゴン]]王家([[バルセロナ家]])との間で、[[シチリア王国|シチリア]]、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]({{仮リンク|[[アラゴン十字軍|ca|Croada contra la Corona d'Aragó}}]])並びに[[地中海]]を舞台にして繰り広げられた。
 
== 背景 ==
ペドロ3世は自身の優位を強調し、[[1283年]]2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルルは、ペドロのもとに手紙を送って[[一騎討ち]]による紛争の解決を求めた。ペドロはこれを承諾し、シャルルはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘は[[ボルドー]]にて[[1月1日]]に行われることなった。双方共に100人の騎士が同行し、[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している<ref>Chaytor, p 104.</ref>。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチーダを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロには護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。
 
ペドロとシャルルが決闘による決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督である{{仮リンク|ルッジェーロ・ディ・ラウリア|it|Ruggiero di Lauria}}はペドロの代理としてイタリアで戦闘を継続していた。ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル1世はボルドーを去って{{仮リンク|プロヴァンス伯領|fr|Comté de Provence|FIXMEredirect=1}}に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ[[ナポリ・アンジュー朝|王朝]]の支柱となる[[ナポリ]]へ派遣した。ルッジェーロは[[マルタ]]を占領し、同島近くの{{仮リンク|マルタの戦い|ca|Combat de Malta}}で{{仮リンク|アンジュー伯|fr|Comté d'Anjou|FIXMEredirect=1}}={{仮リンク|[[プロヴァンス伯|fr|Comté de Provence|FIXME=1}}]]艦隊を撃破した。それからナポリ港外においてシャルル1世の息子で王位継承者である{{仮リンク|サレルノ公|it|Principi di Salerno}}[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル(2世)]]と引き分けている。ルッジェーロは完全に遠洋に針路をとって、{{仮リンク|ナポリ湾の海戦|ca|Batalla del golf de Nàpols}}でアンジュー海軍を完膚なきまでに破壊した。ルッジェーロはメッシーナにおいてサレルノ公を捕虜とし、42の艦船を拿捕している。シャルル1世はこの時イタリアに到着していたが、それからすぐ後の[[1285年]]に死去した。シャルル1世の後継者であるサレルノ公は虜囚の身であり、他方ペドロ3世も{{仮リンク|[[アラゴン十字軍|ca|Croada contra la Corona d'Aragó}}]]という新たな脅威に対処しなければならなくなったことから、イタリアにおける争いは両陣営の主導者が不在のまま継続することとなった<ref name="Chaytor, p 105">Chaytor, p. 105.</ref>。
 
== アラゴン十字軍 ==
15,799

回編集