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[[東京府]][[東京市]][[下谷区]]に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。
 
[[京華中学高等学校|京華中学]]を経て、[[慶應義塾大学]][[文学部]]在学中に、『[[三田文学]]』主幹で西洋美術史家の[[澤木四方吉]]から教えを受け、『[[三田文学]]』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は[[鈴木三重吉]]が主宰していた児童雑誌『[[赤い鳥]]』の編纂に携わる。1919年に慶大文学部講師となり、最終的には同学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
 
1922年に親交があった講釈師・五代目[[神田伯龍]]を題材とした短篇『一枚看板』で文壇に認められ、1927年の『緑の騎士』で大衆的人気を得る。以後多くの大衆小説を書き『花咲く樹』『人妻椿』『新妻鏡』など人気作を次々執筆し、映画化もされ、そちらも人気を集めるなど、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。1934年には[[直木賞]]・[[芥川龍之介賞|芥川賞]]の選考委員となる。[[朝鮮藝術賞]]審査員など文壇の中心人物として活躍。