「アルガーノン・キングスコート」の版間の差分

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全豪選手権優勝から半年後、キングスコートは[[1920年]]の[[1920年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]男子ダブルスで準優勝した。パートナーは同じイギリスの[[ジェームズ・セシル・パーク|ジェームズ・パーク]]と組んだが、決勝で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ペアの[[リチャード・ノリス・ウィリアムズ|リチャード・ウィリアムズ]]&[[チャールズ・ガーランド]]組に 6-4, 4-6, 5-7, 2-6 で敗れ、準優勝に終わった。この大会のシングルスでは、4回戦で[[ビル・チルデン]]に敗退している。(チルデンは自著『ローンテニスの芸術』の第13章で、キングスコートのプレーに関する詳細な説明を残した。)その後は[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]・[[1924年ウィンブルドン選手権|1924年]]のベスト8が最高成績であった。キングスコートの活動期間中に、ウィンブルドン選手権ではトーナメントのシステムが変更され、[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]を最後に「チャレンジ・ラウンド」と「オールカマーズ・ファイナル」が廃止された。[[1922年ウィンブルドン選手権|1922年]]から、すべての選手が1回戦からトーナメントに出場する方式になり、現在に至っている。
 
[[1924年]]、キングスコートは[[1924年パリオリンピック (1924年) におけるテニス競技|パリ五輪]]で[[オリンピックテニス競技|オリンピック]]に出場したが、シングルス4回戦で[[ジャン・ボロトラ]]([[フランス]])に 1-6, 3-6, 1-6 で完敗した。彼はこの年までデビスカップのイギリス代表選手を務め、[[1927年]]の[[1927年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]2回戦敗退を最後に競技テニスから引退した。彼はイギリス陸軍の職業軍人として、[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]にも従事した。全豪選手権優勝とウィンブルドン選手権での活躍から40年ほど後、アルガーノン・キングスコートは[[1964年]][[12月21日]]に[[イングランド]]・[[サリー (イングランド)|サリー州]]ウォーキングにて76年の生涯を終えた。
 
== 参考文献 ==