「新宮鉄道」の版間の差分

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== 歴史 ==
=== 会社設立まで ===
昔の[[熊野]]の交通手段は海路か[[けもの道]]しかなかった。[[明治]]に入っても海岸線沿いに[[熊野那智大社]]参詣のための人力車が通れる程度の道しかなかった。[[熊野川]]流域は林業の盛んであり、伐採した木材を[[筏]]に組んで流し河口の新宮港より帆船で大阪・東京へ出荷していた。しかし新宮港は砂州で塞がるなど大型船が入港できず支障があり、三輪崎港も碇泊に不便であった<ref name="nti304"/>。そのため、材木商らにより大型船の入港可能な勝浦港までの鉄道建設計画が度々なされてきた。
 
まず[[1899年]](明治32年)1月、新宮鉄道発起人辻野惣兵衛に対し、新宮勝浦間鉄道敷設仮免状<ref>[{{NDLDC|805399/19}} 『鉄道局年報. 明治31年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が下付される。[[資本金]]は、東・[[西牟婁郡]]の会社のなかで最も大きかった新宮銀行の25万円より多い40万円<ref>「新宮鉄道の設立過程」16-17頁</ref>であった。木材輸送と熊野那智大社への参拝客輸送を目的としたが、木材商の賛同を得られず、本免許の申請を行わなかったため、[[1902年]](明治35年)に失効してしまう<ref NAMEname="HYAKU4"/><ref>[{{NDLDC|2948888/11}} 「私設鐵道株式會社假免狀失效」『官報』1902年2月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。同年には新宮 - 宇久井間を[[馬車鉄道]]で結ぶべく測量を始めたが、まもなく中止してしまった。
 
[[1907年]](明治40年)になり、津田長四郎と新宮水電([[1900年]](明治33年)開業)の役員ら<ref group="†">発起人12人のうち7人は前回申請の発起人『日本国有鉄道百年史』第6巻、546頁</ref>に対し新宮電気軌道鉄道敷設仮免状が下付された。しかし、動力に多額の費用がかかり、主要の貨物輸送に支障があることからこの出願を取り下げて<ref name="syo">『新宮市史. 史料編 下巻』368-369頁</ref>、新たに普通鉄道として出願したのが新宮鉄道株式会社であり、[[1909年]](明治42年)になり仮免許状が下付された<ref name="syo378"/>。
 
しかし、資本金60万円の新宮鉄道株式募集は芳しくなく、津田は熊野実業新聞主筆に対し新宮鉄道の株式は満株に近いと宣伝するよう度々命じていたという<ref>『新宮市史』539頁</ref>。こうして株式募集に励んだ結果、総株が引き受けられることになったので、[[1910年]](明治43年)4月27日に新宮鉄道株式会社は設立され、本社は新宮市に置き、社長に津田長四郎が就任した。
 
=== 開業 ===
[[1911年]](明治44年)5月に着工し、[[1912年]](大正元年)9月21日、暴風雨により諸建造物及び組立中の車両に被害をうける<ref name="syo378"/>など工事が遅れたが、12月4日に[[紀伊勝浦駅|勝浦駅]] - [[三輪崎駅]]間が開業。1913年(大正2年)3月1日、三輪崎駅 - [[新宮駅]]間が開業し、全線が開通した。[[1914年]](大正3年)、勝浦港に木造の[[桟橋|浮桟橋]]が完成し、汽船が横付け接岸できるようになり便利になった<ref name="nti304">『那智勝浦町史』下巻、304頁</ref>。[[1915年]](大正4年)に[[軽便鉄道補助法]]による補助を申請したが、業績好調のため却下されている<ref name="hyaku9644"/>。反面、鉄道開通により[[大阪商船]]の大阪三輪崎線<ref group="†">大阪商船は[[1899年]](明治32年)に大阪田邊線を三輪崎まで延航して大阪三輪崎線として就航。[[1911年]](明治44年)には大阪三輪崎線が田邊止まりになると同時に大阪三輪崎急航線を開始した『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船、1934年、174-175頁</ref>の勝浦 - 三輪崎間が廃止されたため、三輪崎町の収入が4割減になった<ref>『新宮市史』537頁</ref><ref group="†">三輪崎町は計画時から町の繁栄が奪われるとして鉄道建設反対の声があった『新宮鉄道の設立過程』20頁</ref>。
 
主力である木材の輸送は概ね好調で、[[1916年]](大正5年)から[[1917年]](大正6年)にかけては[[第一次世界大戦]]の影響により、[[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]発生により被災地への輸送、さらに[[台湾]]向けの木材輸送が増加して[[1933年]](昭和8年)度の貨物収入は12万6672円となり、過去最高を記録した<ref name="hyaku9644">『日本国有鉄道百年史』第9巻、644頁</ref>。
 
このように貨物輸送が好調なので、[[1920年]](大正9年)と[[1927年]](昭和2年)に勝浦港の桟橋の増設工事がされた。また旅客輸送も1923年に[[紀伊佐野駅|佐野村駅]]に[[列車交換]]設備を設けて列車を増発し、大阪商船と旅客、手荷物の[[連帯運輸]]を開始した<ref group="†">大阪商船は1927年大阪勝浦線にディーゼル貨客船「那智丸」「牟婁丸」を就航させ、[[1928年]](昭和3年)6月に[[瀞峡|瀞]]探勝、熊野巡り、翌年3月那智見物などモデルコース、日程プランのパンフレットを作成し観光振興に取り組んでいた。『和歌山県史』近現代2、87-88頁</ref>。[[1925年]](大正14年)、[[宇久井駅]] - [[那智駅]]間に狗子ノ川駅を設置した。また[[那智山 (山)|那智山]]への延長を企画し、1920年8月に鉄道免許状が下付<ref name="nati">[{{NDLDC|1914901/248}} 『地方鉄道一覧 : 大正14年6月1日調』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref group="†">那智村も競願したが却下された[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00100484&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 「那智鉄道競願問題」大阪朝日新聞 紀伊版 1919年12月27日]神戸大学附属図書館新聞記事文庫</ref>され、40万円増資し100万円としたが着工できず、[[1926年]](大正15年)に免許失効となった<ref>『新宮鉄道の設立過程』22頁</ref>。
 
[[1929年]](昭和4年)、山上自動車が新宮 - 勝浦間に[[バス (交通機関)|乗合い自動車]]業を開始した<ref NAMEname="NATUK">『懐かしの新宮鉄道』36頁</ref>。新宮鉄道は[[1930年]](昭和5年)に[[気動車|ガソリンカー]]の運転を開始して運転本数を増やし、速度を向上させ対抗した<ref NAMEname="NATUK"/>。
 
=== 紀勢線の建設、国有化へ ===
1933年7月に紀勢線建設推進のため新宮鉄道を国有化すべく、社長の松江武二郎より[[鉄道大臣]]あてに買収の請願が行われた<ref name="hak6445">『日本国有鉄道百年史』9巻、644-645頁</ref>。紀勢鉄道建設は[[1910年]](明治43年)第26回[[帝国議会]]に[[山口熊野]]、[[尾崎行雄]]ら和歌山県、[[三重県]]選出の代議士により提出され第27回、第28回と続けて[[衆議院]]を通過したものの、すべて[[貴族院 (日本)|貴族院]]で否決されていた<ref>『日本の地方鉄道網形成史』189-190頁</ref><ref group="†">大阪商船社長、政友会の[[中橋徳五郎]]の紀州航路防衛が影響してとみられる『日本の地方鉄道網形成史』190頁</ref>。ようやく1919年(大正8年)、第41回帝国議会の協賛を得て<ref>[{{NDLDC|2954104/3}} 「法律第20号」『官報』1919年3月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、1919年度から10カ年計画で着工されることとなった<ref>『日本の地方鉄道網形成史』201頁</ref>。東西両端から建設することになり、まず[[1920年]](大正9年)東線第一工区の[[多気駅|相可駅]] - [[栃原駅]]間の着工により紀勢線の第一歩となった。一方、西線は[[1921年]](大正10年)第2工区の[[紀三井寺駅]] - [[加茂郷駅]]間が着工された。紀勢東線は1923年、相可口駅 - 栃原駅間が開通。紀勢西線は[[1924年]](大正13年)[[紀和駅|和歌山駅]] - [[箕島駅]]間が開通。以降両線は、延伸都度開業を繰り返した<ref name="naka98">『日本国有鉄道百年史』第9巻、98-102頁</ref>。しかし、時の政権の事情により[[日本の鉄道史#建主改従か改主建従か|建主改従か改主建従]]に目まぐるしく方向が変わり、新宮まではなかなか到達しなかった。[[関東大震災]]後の[[加藤高明内閣]]は改主建従であり、紀勢線の完成予定年度は[[1929年]](昭和4年)から[[1935年]](昭和10年)へ繰り延べられてしまう。[[1928年]](昭和3年)、[[田中義一内閣]]の[[小川平吉]]鉄道大臣が紀州入りの際に「新宮中間起工ならできる」との発言もあったが、次の[[濱口内閣]]は不況による緊縮財政のため完成予定年度が1935年から[[1941年]](昭和16年)へと再度繰り延べられてしまった<ref>『日本の地方鉄道網形成史』296頁</ref>。
 
こうした状況に対し、地元では新宮中間起工の速成運動を繰り返していたが、ようやく[[1932年]](昭和7年)10月に紀伊勝浦駅 - [[串本駅]]間が着工した<ref name="naka101">『日本国有鉄道百年史』第9巻、101-102頁</ref>。こうして先の松江社長の買収請願をうけて[[1934年]](昭和9年)第65回帝国議会に新宮鉄道ほか3鉄道買収に関する法律案が政府より提出された<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00102916&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 「買収私鉄決定す秋田、佐久、簸上、新宮の四線」大阪朝日新聞 1933年11月9日]神戸大学附属図書館新聞記事文庫</ref>。3月27日法律第16号<ref>[{{NDLDC|2958643/2}} 「法律第十六号」『官報』1934年3月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>により買収されることになり、7月1日、国有化され、'''紀勢中線'''となった。買収価額は243万3622円(交付公債額254万2375円)<ref group="†">[[1936年]](昭和11年)新宮鉄道が決算を水増して買収価格を釣り上げたことが発覚し、元重役や鉄道省監督局の職員が贈収賄の罪に問われた事件が起きている。『東京朝日新聞』1936年12月16日「監督局両氏 新宮鉄道疑獄で連行」、1938年6月10日「新宮鉄道疑獄に判決」、1938年11月29日「新宮鉄道疑獄控訴判決」</ref>職員91人が大阪鉄道局へ引き継がれた<ref>『日本の地方鉄道網形成史』304頁</ref>。
 
=== 国有化後 ===
国有化後、旧新宮鉄道の路線は改築工事がされ、旧路盤は60%程度、残りは隧道橋梁の新設及び勾配緩和曲線改良のため線路変更がされた<ref name="naka101"/><ref>『日本の地方鉄道網形成史』299頁</ref><ref group="†">トンネルの一部は国道として再利用されていたがのちに廃道になった『鉄道廃線跡を歩く6』、110頁</ref>。[[1935年]](昭和10年)に紀伊勝浦駅 - [[下里駅]]間<ref>[{{NDLDC|2959034/2}} 「鉄道省告示第271号」『官報』1935年7月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、1936年下里駅 - 串本駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2959459/4}} 「鉄道省告示第453・454号」『官報』1936年12月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。1940年(昭和15年)串本駅と紀勢西線[[江住駅]]が接続し、ようやく離れ小島が解消し、線路名称は'''紀勢西線'''となった。同時に新宮駅 - [[熊野市駅|紀伊木本駅]]間が開業した<ref>[{{NDLDC|2960570/5}} 「鉄道省告示第170・171・172号」『官報』1940年8月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。しかし、紀勢東線[[尾鷲駅]]までの延長は隧道を含む難区間であり、[[太平洋戦争]]の影響で1941年に工事はいったん中止となり、紀勢本線の全通は[[1959年]](昭和34年)となる。なお尾鷲駅 - 紀伊木本駅間には1936年より[[矢ノ川峠]]経由の[[国鉄バス|省営自動車]](紀南線)<ref>[{{NDLDC|2959418/4}} 「鉄道省告示第363号」『官報』1936年10月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が連絡しており、所要時間は2時間50分であった。
 
=== 年表 ===
* 1907年(明治40年)
** 1月6日:電気軌道敷設(東牟婁郡新宮町 - 同郡勝浦村間)出願<ref name="syo378">『新宮市史. 史料編 下巻』、378-380頁</ref>
** 5月3日:認可その後取り消し<ref name="syo378"/>
* 1908年(明治41年)4月1日:普通鉄道出願<ref name="syo378"/>
* 1909年(明治42年)
** 5月14日:'''新宮鉄道'''に対し仮免許状下付([[東牟婁郡]][[新宮 (新宮市)|新宮町]]-同郡[[勝浦 (那智勝浦町)|勝浦村]]間 動力蒸気及自働車<ref group="†">[[蒸気動車]]。急勾配があるため採用を取り消した。湯口徹『日本の蒸気動車』(上)ネコパブリッシング、2008年、11頁、『新宮鉄道の設立過程』21頁</ref>併用)<ref>[{{NDLDC|2951116/8}} 「私設鉄道株式会社仮免許状下付」『官報』1909年5月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="syo378"/>。
** 6月2日:株式募集(60万円)<ref name="syo378"/>
* 1910年(明治43年)
** 4月27日:新宮鉄道株式会社設立。社長津田長四郎<ref>[{{NDLDC|780123/981}} 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1703995/478}} 『人事興信録. 4版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref NAMEname="HYAKU4">『日本国有鉄道百年史』第4巻、547-548頁</ref>
** 12月22日:新宮鉄道を軽便鉄道に指定<ref>[{{NDLDC|2951608/5}} 「軽便鉄道指定」『官報』1910年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="syo378"/>。
* 1911年(明治44年)5月27日: 工事着手<ref name="syo378"/>
* [[1912年]](大正元年)
** [[9月21日]]:暴風雨により諸建造物及び組立中の車両に被害をうける<ref name="syo378"/>
** [[12月4日]]: 勝浦駅 - 三輪崎駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2952207/8}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1912年12月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="syo378"/>。
* [[1913年]](大正2年)[[3月1日]]:三輪崎駅 - 新宮駅間が延伸開業<ref>[{{NDLDC|2952277/6}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年3月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="syo378"/>。宇久井-三輪崎間に佐野村停留場設置<ref>[{{NDLDC|2952318/9}} 「輕便鐵道停留場設置」『官報』1913年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1915年]](大正4年)2月:社長津田長四郎が病死。松江武二郎<ref>[{{NDLDC|1704004/964}} 『人事興信録. 7版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>材木商[{{NDLDC|932534/774}} 『日本全国商工人名録』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が取締役社長に就任<ref NAMEname="HYAKU4"/>
* 1920年(大正9年)8月13日:鉄道免許状下付(東牟婁郡[[那智町|那智村]]大字天満-同郡同村大字市野々間)<ref>[{{NDLDC|2954525/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1920年8月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1925年(大正14年)3月10日:宇久井-那智間に狗子ノ川駅設置<ref>[{{NDLDC|2955923/8}} 「地方鐵道驛設置」『官報』1925年3月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1926年(大正15年)4月8日:鉄道免許失効(1920年8月13日免許 東牟婁郡那智村大字天満-同郡同村大字市野々間指定ノ期限マテニ工事ニ着手セサルタメ)<ref>[{{NDLDC|2956235/7}} 「鉄道免許失効」『官報』1926年4月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1932年(昭和7年)8月1日:熊野地-三輪崎間に御手洗停留場を設置。
* 1934年(昭和9年) 
** 4月5日:松江武二郎死亡(1934年2月16日)により浦木清十郎が社長に就任<ref>No.56「社長変更並新株増加払込登記完了届ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』</ref><ref>[{{NDLDC|1077392/587}} 『日本全国諸会社役員録. 第42回(昭和9年)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 6月30日:会社解散(7月12日解散登記)<ref>No.75「解散登記結了届ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』</ref>
** [[7月1日]]:新宮鉄道線が国有化となり、'''紀勢中線'''になる<ref>[{{NDLDC|2958719/2}} 「鉄道省告示第281・282号」『官報』1934年6月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
 
== 駅一覧 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"style=" float:left"
|-
!style="width:5em;" | 名称
!style="width:4em;" | 駅間距離(Km)(km)
!style="width:8em;" | 所在地
!style="width:8em;" | 設置日
!備考
|-
|[[新宮駅]]||0.0 ||新宮市新宮||1913年3月1日||駅前に津田長四郎銅像建立<ref>『新宮市史』資料編、382頁</ref>。国有化後1938年、新宮駅 - 三輪崎駅間の路線を変更し、旧駅とは直角の位置に駅舎建設
|-
|熊野地駅||1.0 ||同上||1913年3月1日||熊野川河口の貯木場そばにあり<ref>[{{NDLDC|962121/65}} 『紀州熊野遊覧案内』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、貨物取扱量は駅中最大(昭和8年度115,287トン<ref>[{{NDLDC|1462815/284}} 『和歌山県統計書. 昭和8年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)。1938年(昭和13年)、新宮駅 - 三輪崎駅間を路線変更したことにより経路から外れたため、支線を建設して貨物駅となる<ref>中川浩一「紀勢本線の系譜」『鉄道ピクトリアル』No355、13頁</ref>
|-
|御手洗駅||2.4 ||同上||1932年8月1日||国有化時、広角駅に改称。1937年に廃止<ref>[{{NDLDC|2959603/9}} 「鉄道省告示第179号」『官報』1937年5月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
|[[三輪崎駅]]||2.0 ||同市三輪崎||1912年12月4日||
|-
|[[紀伊佐野駅|佐野村駅]]||1.7 ||同市佐野||1913年3月1日||1923年、行き違い設備を設ける<ref NAMEname="NATUK"/>。国有化時秋津野駅に改称。1942年、紀伊佐野駅に改称。
|-
|[[宇久井駅]]||2.3 ||東牟婁郡宇久井村大字宇久井||1912年12月4日||
|[[那智駅]]||1.6 ||同郡那智村大字浜ノ宮||1912年12月4日||
|-
|[[紀伊天満駅|那智口駅→天満駅]]<ref group="†">1917年(大正6年)2月1日改称[{{NDLDC|2953465/6}} 「軽便鉄道停留場名改称」『官報』1917年2月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。||0.9 ||同郡同村大字天満||1912年12月4日||国有化時、紀伊天満駅に改称。那智山への支線計画の分岐駅だった<ref name="nati"/>。
|-
|[[紀伊勝浦駅|勝浦駅]]||1.2 ||同郡勝浦町||1912年12月4日||国有化時、紀伊勝浦駅に改称。
 
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"
|-
!年度
 
== 車両 ==
他の路線との接続がないことから、開業以来[[連結器#ねじ式連結器 |ねじ式連結器(螺旋連結器)]]が使用されていた。国有化後、海路により[[蒸気機関車]]([[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]])、ボギー客車<ref group="†">1938年(昭和13年)に[[宮松金次郎]]が訪問しており,、勝浦湾で陸揚げされているボギー客車の写真を掲載している「紀勢中線」『鉄道ピクトリアル』No.97、36-39頁</ref>やガソリンカー<ref group="†">紀勢中線を走行している元[[佐久鉄道]][[買収気動車#佐久鉄道(現・小海線の一部)|キハ40305]]の写真が掲載されている。牧野俊介 『岡山より汽車を求めて 下巻』1981年、 プレス・アイゼンバーン82頁</ref>が持ち込まれて旧新宮鉄道の車両は淘汰され、省鉄色が濃くなっていったが、連結器はそのままだった。
 
=== 機関車 ===
開業時は[[鉄道省|鉄道院]]より払下げられた1・2が用意された。その後、1913年(大正2年)に3を、1920年に4を、1922年(大正11年)に5を新製し、[[1929年]](昭和4年)[[湊鉄道]]より6を譲受<ref group="†">増備の理由は1・2・4号機の老朽化、3号機は小型機のため非力である、さらに乗合い自動車との対策として速度向上、運転回数の増加のため必要であるとした。No.22「機関車設計ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』</ref>、1933年(昭和8年)に[[日本電力]][[庄川水力電気]]より7を譲受した<ref name="hoko47">新宮鉄道『営業報告書』47期(昭和8年4月-昭和8年9月)</ref><ref group="†">[[阪鶴鉄道]]3→高野鉄道3→南海鉄道3→日本電力庄川水力電気3</ref>。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:left; width:100%;"
|-
!番号
=== ガソリンカー ===
: [[ファイル:Kishu_Railway_Kiha_103.jpg|thumb|250px|right|紀州鉄道[[市役所前駅 (和歌山県)|市役所前駅]]の待合室となっていた元新宮鉄道キハ205]]
1930年度にキハ201(松井車両製、定員60人)を購入<ref name="hoko40">新宮鉄道『営業報告書』40期(昭和5年4月-昭和5年9月)</ref>1931年度にキハ202(松井車両製、ボギー車、定員80人)を購入<ref name="hoko42">新宮鉄道『営業報告書』42期(昭和6年4月-昭和6年9月)</ref>。同年度にキハ203(松井車両製、ボギー車、定員80人)<ref name="hoko43">新宮鉄道『営業報告書』43期(昭和6年10月-昭和7年3月)</ref>を購入。1933年度に[[富南鉄道]]よりキハ204・205([[日本車輌製造]]製、ボギー車、定員78人)を購入<ref name="hoko47"/>。また1934年(昭和9年)ハ22をガソリンカー専用附随車としている<ref>『内燃動車発達史 上巻』213頁</ref>
{{see|買収気動車#新宮鉄道(現・紀勢本線の一部)}}
 
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:left; width:100%;"
|-
!番号
 
=== 客車 ===
開業時は新宮鉄道工場製とされる<ref group="†">谷口、白土は廃車両の再生ではないかと推定している。一方第4回営業報告書には神戸市の商社よりドイツ製の車輪、スプリング、鋼材など購入したとの記述がある</ref>木製四輪客車7両(ハ1-7<ref>No.23「車両構造ノ件」『第十門私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻一』</ref>→ハ11-17)であった。1917年(大正6年)木製四輪客車6両を南海鉄道から購入し<ref name="bn3-8">No.8「車両譲受改造使用ノ件」『第十門 私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻三』</ref>、うち2両は特等室をもつ車両<ref group="†" name=fsik>南海鉄道では喫茶室があり、コンロ、冷蔵庫が備付であった。「南海の二軸客車」83頁</ref>(ロ1、ロハ1→ハ13→ハ23)でこれにより特等の運行を開始する<ref NAMEname="NATUK"/>。また3両の手荷物車(南海鉄道に1・に2・に4)は有蓋貨物車扱いとした<ref name="naka"> 澤内一晃「南海の二軸客車」『鉄道ピクトリアル』No.835、82-87頁</ref>。1923年(大正12年)[[秩父鉄道]]から木製四輪客車3両を購入(ハ9 - 11→ハ19 - 21)した<ref>No.22「客車譲受並設計ノ件」『第十門 二、地方鉄道 新宮鉄道 巻四』</ref><ref>新宮鉄道『営業報告書』25期(大正11年10月-大正12年3月)</ref>。1926年(大正15年)に木製四輪客車を南海鉄道から購入(ロ2)した<ref name="naka"/><ref group="†" name=fsi>申請以前の大正13年上期営業報告書にロ2購入の記録がある</ref>。1926年(大正15年)11月に[[佐久鉄道]]より木製四輪客車(元[[甲武鉄道の電車|甲武鉄道電車]])を購入(ハ14 - 16→ハ24 - 26)<ref name="yosi"/>。1928年(昭和3年)に木製ボギー客車(ホハ101・ホハ102)を導入した<ref group="†">1928年(昭和3年)に廃車した伊勢鉄道([[伊勢電気鉄道]])ホハ21・ホハ22を新製扱いで設計認可申請したとみられる。湯口徹「私鉄のボギー客車」『[[鉄道友の会|RAILFAN]]』No.736</ref>。
 
国有化時に2軸客車16両、ボギー客車2両が引き継がれた<ref group="†">秩父鉄道から譲受した2軸客車2両(ハ19・ハ21←ハ9・ハ11)は鉄道省に引き継がれていない。1924年下半期(第29回営業報告書)以降にハ9・ハ11の車両補修記録がなく鉄道統計書(1932年度)に客車残が20両から18両に減少していることから、この時期に廃車されたとみられるが、鉄道省文書や営業報告書に該当の記録が見当たらない</ref>。改番はされず<ref name="RF519">大幡哲海「昭和戦前期,買収客貨車改番一覧」『[[鉄道友の会|RAILFAN]]』No.519</ref>のちにほとんどは払い下げられた。廃線になるまで使用された車両もあり、雄勝線ハ13・ハ14は[[博物館明治村]]で動態保存している
 
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:left; width:100%;"
|-
!車種
!style="width:6em;" | 記号番号
!style="width:4em;" | 製造年
!製造所
!購入元
|四輪連結並等客車||ハ11||1912||新宮鉄道工場||新製||[[伯陽電鉄]]ハフ52<ref>白土貞夫『米子を走った電車―日ノ丸自動車法勝寺電車部・米子電車軌道』2016年25-26頁</ref>
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|四輪連結並等客車||ハ12||1912||新宮鉄道工場||新製||[[大分交通耶馬渓線]]ハ12→ハフ27<ref>谷口良忠『大分交通耶馬渓線『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道図書刊行会、1977年、83頁</ref>
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|四輪連結並等客車||ハ13||1912||新宮鉄道工場||新製||[[羽後交通雄勝線|横荘鉄道雄勝線]]ハフ14<ref name="wka">若林宣『羽後交通雄勝線』2003年、38-39頁</ref>
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|四輪連結並等客車||ハ14||1912||新宮鉄道工場||新製||横荘鉄道雄勝線ハフ13<ref name="wka"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ15||1912||新宮鉄道工場||新製||[[天塩鉄道]]ハ3<ref name="swu"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ16||1912||新宮鉄道工場||新製||[[小名浜臨港鉄道]]ハ2<ref name="tki">高井薫平「小名浜臨港鉄道」『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道図書刊行会、1977年、49-50頁</ref>
|-
|四輪連結並等客車||ハ17||1912||新宮鉄道工場||新製||小名浜臨港鉄道ハ3<ref name="tki"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ23||1906||南海鉄道||1917年南海鉄道ろ20を譲受<ref name="naka"/>。||1940年除籍<ref name="naka"/>
|-
|四輪連結特等客車||ロ1||1899||南海鉄道||1917年南海鉄道ろ21を譲受<ref name="naka"/>。||天塩鉄道ハ2<ref name="swu">澤内 一晃、 星 良助『北海道の私鉄車両』2016年、145、148頁</ref>
|-
|四輪連結並等客車||ハ18||1901||南海鉄道||1917年南海鉄道は34を譲受。当初はハ8<ref name="naka"/>||1940年除籍<ref name="naka"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ20||1901||東京車両製作所||1923年秩父鉄道より譲受したハ1、2、15の一両<ref>澤内一晃「秩父鉄道車両のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』No.662、98頁</ref>||鹿島参宮鉄道ハフ20<ref group="†">関東鉄道所蔵の竣工図では製造年不明日本車輌東京支店製とある。白土貞夫「関東鉄道竜ケ崎線―龍崎鉄道・鹿島参宮鉄道竜ケ崎線―(下)」 ネコ・パブリッシング、2013年、22-23頁</ref><ref>白土貞夫『鹿島鉄道―鹿島参宮鉄道・関東鉄道鉾田線』2008年、32頁</ref>
|四輪連結並等客車||ハ22||1924||新宮鉄道工場||||
|-
|四輪連結特等客車||ロ2||1899||南海鉄道||1926年南海鉄道ろ22?を譲受<ref name="naka"/>||天塩鉄道ハ1<ref name="swu"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ24||1904||甲武鉄道飯田工場||1926年佐久鉄道ハ1(元甲武鉄道の電車)を譲受<ref name="yosi">吉川文夫「私鉄へ行った国電の始祖(甲武電車)」『レイル』No.38 、プレス・アイゼンバーン、30-37頁</ref>||[[庄内交通]]ハ12<ref name="kbo">久保田久雄『庄内交通湯野浜線』2005年、47頁</ref>
|-
|四輪連結並等客車||ハ25||1904||甲武鉄道飯田工場||1926年佐久鉄道ハ3(元甲武鉄道の電車)を譲受<ref name="yosi"/>||庄内交通ハ13<ref name="kbo"/>
|-
|四輪連結並等客車||ハ26||1904||甲武鉄道飯田工場||1926年佐久鉄道ハ2(元甲武鉄道の電車)を譲受<ref name="yosi"/>||[[鹿島参宮鉄道]]ハ21<ref>白土貞夫『鹿島鉄道―鹿島参宮鉄道・関東鉄道鉾田線』2008年、31頁</ref>
|-
|四輪連結ボギー並等客車||ホハ101||1922||加藤製作所<ref group="†">戦前大阪にあった工場で登記上は加藤車両製作所。[[加藤製作所]]とは無関係。湯口徹「私鉄のボギー客車」『RAILFAN』No.735</ref>||新製(1928年設計認可)<ref name="yku"/>||コハ101に改番。1949年廃車<ref name="yku">湯口徹「私鉄のボギー客車」『RAILFAN』No.736</ref>
|-
|四輪連結ボギー並等客車||ホハ102||1922||加藤製作所||新製(1928年設計認可)<ref name="yku"/>||コハ102に改番。1949年廃車<ref name="yku"/>
|-
|}
 
=== 貨車 ===
買収時は下記の63両。改番はされていない<ref name="RF519"/>。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:left; width:100%;"
|-
!車種
|四輪有蓋緩急車||ワフ1-2||1911||新宮鉄道工場||
|-
|四輪有蓋緩急車||ワフ3-5||1906||南海鉄道||1917年南海鉄道より譲受した木製四輪客車<ref name="naka"/>
|-
|四輪有蓋車||ワ21-25||1913||新宮鉄道工場||
|四輪無蓋車||ト51-73||1913||新宮鉄道工場||
|-
|四輪無蓋車||ト74-78||||鉄道省神戸工場||1922年鉄道省より払下げされた無蓋貨車。当初と24-2824-28<ref name="hoko23">新宮鉄道『営業報告書』23期(大正10年10月-大正11年3月)</ref>
|-
|四輪材木車||チ101-110||1898||九州鉄道||1919年度鉄道院より払下げされた無蓋貨車(ト8736-8742、8744-8746)。当初ほ1-10<ref>[{{NDLDC|974240/96}} 『鉄道院鉄道統計資料. 大正8年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="hoko19">新宮鉄道『営業報告書』19期(大正8年10月-大正9年3月)</ref>
|-
|四輪材木車||チ111-115||1929||新宮鉄道工場||新製。当初チ11-15<ref>新宮鉄道『営業報告書』37期(昭和3年10月-昭和4年3月)</ref><ref>No.23「貨車設計ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』</ref>
|-
|四輪材木車||チ116-120||1933||新宮鉄道工場||無蓋貨車購入<ref name="hoko47"/>
|-
|}
 
=== 車両数の変遷 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:75%;"
|-
! rowspan="2" | 年度 !! rowspan="2" | 機関車!!rowspan="2" | ガソリンカー!!rowspan="2" |客車!! colspan="3"| 貨車
{{Reflist|group="†"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==
*『新宮鉄道営業報告書』営業報告書集成 (マイクロフィルム版) 、雄松堂アーカイブズ
*鉄道省文書([[鉄道博物館 (さいたま市)]]所蔵)
**『第十門私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻一』自明治43年至大正3
**『第十門 私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻三』自大正6年至大正9年
**『第十門 二、地方鉄道 新宮鉄道 巻四』自大正10年至大正15年
== 関連項目 ==
*[[五新線]][[五條]]、新宮間の鉄道で大正13年着工が決まるも起工は昭和14年のちに中止
 
== 外部リンク ==
* [http://www.sankei.com/west/news/150120/wst1501200001-n1.html 日本一古い「木造客車」が“里帰り]産経新聞大阪本社版、2015年1月20日
 
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[[Category:新宮鉄道|*]]