「木下弥右衛門」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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{{Quotation|一 父木下弥右衛門ト云中々村ノ人、[[織田信長|信長]]公ノ親父[[織田信秀|信秀]]{{small|織田備後守}}鉄砲足軽也。爰(ここ)カシコニテ働キアリ。就夫手ヲ負五体不{{sub|レ}}叶、中々村ヘ引込百姓ト成ル。太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ、其後秀吉八歳ノ時、父弥右衛門死去。|『太閤素生記』{{sfn|小和田|1985|p=36}}}}
 
これにより秀吉の父について、[[尾張国]][[中村 (愛知県)|中村(中々村)]](現・[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]])生まれで、[[織田氏|織田家]]の[[足軽]]{{refnest|『太閤素生記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて[[種子島]]に[[鉄砲]]が伝わったのが[[1543年]]8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている<ref name="p37">{{harvnb|小和田|1985|p=37}}</ref>。}}、あるいは[[傭兵#日本|雑兵]](雇い兵)<ref>{{harvtxt|小和田|1985|p=57}}には、『[[武功夜話]]』を信じるならば、弥右衛門は[[蜂須賀正利]]([[蜂須賀正勝]]の父)の配下だった可能性もあると述べられている。</ref>であったが、ある合戦において負傷したために(片足が不虞になって{{sfn|真田|1912|p=181}})勤務を辞めて、故郷で帰農したという人物像が描き出されてきた。ただし『太閤素生記』の記述には2つ問題があり、下士に過ぎない人物が姓を名乗っていたとは思われない点と鉄砲伝来以前であるのに鉄砲足軽であったとする点<ref name="p37"/>は、誤伝が含まれていることを示唆していた<ref name="p37"/>ので、全面的に信頼できるものとはいえない。しかしそれでも、『甫庵太閤記』<ref>『甫庵太閤記』では秀吉の父親は竹阿弥(筑阿弥)だとしている。なお、『太閤素生記』は『甫庵太閤記』出版の後に出たものである。</ref>以外の説で出生に関するほとんど唯一の史料で、『明良洪範』などの他誌にも引用されていると考えられ、同記は中々村の代官・稲熊助右衛門の娘(著者[[土屋知貞]]の養母)から直接聞いたとされる[[聞書]](ききがき)としての一定の史料価値は評価されている{{sfn|小和田|1985|pp=37-38}}。
 
{{Quotation|一 秀吉母公ゴキソ村ト云所ニ生レテ木下弥右衛門所ヘ嫁シ、秀吉ト瑞龍院トヲ持、木下弥右衛門死去ノチ後家ト成テ、二人ノ子ヲハグ丶ミ中々村ニ居ル|『太閤素生記』{{sfn|小和田|1985|p=66}}}}
 
弥右衛門は、美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)とも、尾張国[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[御器所村]](現・愛知県名古屋市[[昭和区]])の農夫の娘ともいう、なか(仲、[[大政所]])を娶った。なかは、藤吉郎(豊臣秀吉)、とも([[日秀尼|日秀]]、夫は[[三好吉房]])、小一郎([[豊臣秀長|秀長]])、旭([[朝日姫]]、[[徳川家康]]継室。駿河御前)を授かった。上記のように、弥右衛門の子は藤吉郎とともの2人だけで、通説では、小一郎・旭についてはなかの後夫の[[竹阿弥]]の子で異父姉弟であるとされるが、生没年に齟齬があり、『絵本太閤記』などでは弥助(弥右衛門)が剃髪して竹阿弥と号したという内容になるため、異説もある。{{see also|竹阿弥}}
 
天文12年(1543年)1月2日<ref name="dd">『尾張群書系図部集』『京都瑞竜寺過去帳』『木下家系図』。</ref>、弥右衛門は、秀吉が7歳(または8歳)の時に死去した。戒名は妙雲院殿栄本虚儀。