「大塩平八郎の乱」の版間の差分

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そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の[[跡部良弼]](老中[[水野忠邦]]の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の[[北風家]]から購入した米を新[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]就任の儀式のため[[江戸]]へ廻送していた。
 
このような情勢の下、利を求めてさらに米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、[[大砲]]などの火器や[[焙烙玉]](爆薬)を整えた。[[一揆]]の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、[[一朱金|金1朱]]と交換できる[[施行札]]を大坂市中と近在の村に配布し、天満で火災が発生したなら駆けつけるよう決起の檄文で参加を呼びかけた。
 
一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送った。新任の西町奉行[[堀利堅]]が東町奉行の跡部に挨拶に来る[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。
 
== 決起 ==
ところが決起直前になって町目付平山助次郎が離反し、2月17日夜、東町奉行跡部良弼に決起計画と参加者を密告した。跡部は参加者予定者に少なからず奉行所の役人がいることに驚き、平山を江戸の勘定奉行[[矢部定謙]]への報告の使者として向かわせた。平山は乱鎮圧後の29日に江戸に到着し矢部に報告したが、身柄を拘束され取り調べを受けた。平山は翌年6月に監視人の隙きを突いて自決した。
ところが決起直前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知された。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[3月25日]])の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
 
東町奉行跡部は西町奉行堀と相談し、大塩を捕縛する準備を進めたが、大塩門弟の部下から何かの間違いで自分が真意を確かめてくるので待っていてほしいと懇願されて捕縛は延期された。しかし、19日早朝に相次いで数名の大塩の門弟決起参加者でが東町奉行所に檄文を持参して決起計画を通報してきた。大塩の決起が本当であると確信した堀は、大塩門弟で決起参加者の奉行所与力瀬田済之助、小泉淵次郎が泊り番として奉行所にいたことから2名を捕縛しようとした。しかし両名は逃亡を図り、小泉は惨殺されたが瀬田は大塩邸に逃げ込んだ。計画は奉行所に察知されたことを知った大塩は計画を変更し[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[3月25日]])の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
[[天満橋]](現[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]])の大塩邸を発った大塩一党は、[[難波橋]]を渡り、[[北船場]]で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧された。
 
堀から報告を受けた大阪城代[[大坂城代]][[土井利位]]([[古河藩]]主)は、大塩の伯父で養子格之助の実兄である与力大西与五郎に使者を送り「大塩に腹を切るよう説得しろ。それに応じないなら刺し違えろ。」と命じた。しかし与五郎は病気療養中であったので、養子の善之進が代わりに大塩邸に向かった。ところが、すでに大塩は決起しており急ぎ戻って与五郎と相談し、「無本人の親族では咎がある」と西宮まで逃げたが、刀を捨て身をやつして大坂に戻ったところを捕縛された。後に与五郎は遠島、善之進は中追放になった。
大塩焼けによる被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、[[天満]]を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。
 
[[天満橋]](現[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]])の大塩邸を発った大塩一党は、[[難波橋]]を渡り、[[北船場]]で三井呉服店や鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりであった。大塩勢と奉行所の部隊は内平野町で衝突したが、たちまち奉行所側蹴散らされて四散した。次いで淡路町近辺でも両勢が衝突したが、大塩勢は壊滅し、決起はわずか半日で鎮圧された。大塩勢の戦死者は3名、巻き込まれて死亡した者15名に対し奉行所側は負傷者すらいなかった。
 
城代は在阪大名家や近隣各藩に出陣を要請し、市内や郊外において大掛かりな検問行った。
 
大塩焼けは20日よるは鎮火したが被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、[[天満]]を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、その後の餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。
 
大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った建議書が幕府に届くことを期待したのである。だが建議書は江戸に届いたものの、大坂町奉行所が発した差し戻し命令のため発送先に届けられず、大坂へと差し戻しの途中、[[箱根関|箱根の関]]で発見され、押収されてしまう。
 
失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、以前から大塩家に出入りしていた商人美吉屋五郎兵衛の店(現[[西区 (大阪市)|西区]]靱油掛町付近)に押しかけ匿われたが、出入りす女中が帰郷中に五郎兵衛夫妻が神棚へのお供えと説明していた二名分の食事が全て食べられた状態で下げられ奉公と話したのを聞いた村役が不審よって[[思い領主である城代]][[土井利位]]([[古河藩陣屋]]主)に通報され露見した。3月27日早朝、土井とその家老[[鷹見泉石]]らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って火を放ち自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。大塩と格之進の死体は牢獄が焼失していたため高原溜に送られて塩漬けにされた
 
逃亡した他の決起参加者もことごとく捕縛されるか自決し、高原溜に護送された。勾留環境は過酷を極め、処分決定時まで生きていた決起首謀者は、門弟で同心であった竹上万太郎だけであった。死亡した決起参加者の遺体は塩漬けにされ保存された。
 
重大事件であり、参加者も多かったことから、大坂町奉行所で審問、調書作成を行ったものを江戸に上申しやり取りするなど手間がかかり、処分は事件発生翌年の天保9年8月にようやく決定した。
 
主な者の処分だけで、大塩以下18名の塩漬け死体と竹上万太郎の合計19名が引廻しの後飛田刑場で[[磔]]、美吉屋五郎兵衛以下11名が引廻しの上[[斬首刑|打首]][[獄門]]、3名が死罪、大塩の近親者ら4名が遠島、3名が中追放となった。
 
また、城代[[土井利位]]は美濃国兼定の刀を将軍から拝領するなど、鎮圧に功があった者への褒賞も同時に発表された。
 
== 事後 ==