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[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[エルバ島]]脱出ののち[[ワーテルローの戦い]]で敗れると([[百日天下]])、[[ウィーン会議]]により身柄の扱いはイギリスに一任された。イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否し、保護を名目としてこの絶海の孤島に閉じ込めることにした。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死去するまで島中央の[[ロングウッド・ハウス]]に暮らした。しばしば「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づかない不法拘留であった。
 
イギリスは、[[ハドソン・ロー]]総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。ハドソン・ローの干渉に、ナポレオンは不満を漏らすこともあったが、ロングウッドの屋敷に、[[アンリ・ガティアン・ベルトラン]]将軍とその家族、さらに32人の中国人を含むスタッフなどと多数で、豊富な食料品を移入して暮らしていたことが、近年(2015年)に明らかになっている<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3061087 ナポレオン、流刑地でも豪華な食生活 セントヘレナ島] AFP(2015年9月24日)2017年10月17日閲覧</ref>。
 
ナポレオン幽閉の時代もこの島は東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。ナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島である[[アセンション島]]や[[トリスタンダクーニャ|トリスタンダクーニャ島]]<ref>「隣」と言っても、アセンション島とは約1,300km、トリスタンダクーニャ島とは約2,430km離れている。</ref>にもイギリス軍が派遣された。
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