削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
指定山崎 (会話 | 投稿記録)
何でもかんでもリンクしないように S now - d orops (会話) による ID:69540086 の版を取り消し
タグ: 取り消し
34行目:
 
== 概要 ==
市域は[[ティエールの城壁]]跡に造られた[[ペリフェリック|環状高速道路]]の内側の[[市街地]](面積は86.99[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。参考:[[東京都]]・[[山手線]]の内側は63km<sup>2</sup>、[[ニューヨーク市]]・[[マンハッタン]]は59km<sup>2</sup>)、および、その外側西部の[[ブローニュの森]]と外側東部の[[ヴァンセンヌの森]]を併せた形となっており、面積は105.40&nbsp;km<sup>2</sup>。[[ケスタ]]地形を呈する[[パリ盆地]]のほぼ中央に位置し、市内を[[セーヌ川]]が貫く。この川の[[中州]]である[[シテ島]]を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである<ref>[http://www.paris-walking-tours.com/montmartre.html Montmartre]</ref>。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい[[北大西洋海流]]と[[偏西風]]によって一年を通して比較的温暖となっており、[[西岸海洋性気候]]の代表的な都市である。
 
世界有数の[[メガシティ|大都市]]であり、アメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]に次ぐ世界3位の都市と評価された<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。日本の民間シンクタンクによる[[2017年]]発表の「世界の都市総合力ランキング」(森記念財団都市戦略研究所、[[森ビル]])では、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]、[[東京]]に次ぐ世界4位の都市と評価された<ref>2015年暮れの[[パリ同時多発テロ事件]]等が相次いだ影響を考慮した、東京を拠点とする[[森ビル]]傘下民間[[シンクタンク]]ないし[[研究所]]による発表である。[http://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017] 森記念財団都市戦略研究所。 2017年10月26日閲覧。</ref>。フランス経済の中心地で、世界屈指の経済都市であり、[[多国籍企業]]の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンと共にヨーロッパでトップクラスであり、[[フォーチュン・グローバル500|世界500大企業の本社数]]では、[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]を凌ぎ、[[西洋]]の都市では最多である。[[2014年]]のアメリカの[[ダウ・ジョーンズ]]らの調査によると、世界7位の[[金融センター]]と評価されており、欧州ではロンドンに次ぐ2位である<ref>[http://www.sh.xinhuanet.com/shstatics/zhuanti2014/zsbg/en.pdf Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index(2014)] 2014年11月7日閲覧。</ref>。
61行目:
=== 古代 ===
[[File:Thermes-de-Cluny-caldarium.jpg|thumb|200px|国立中世博物館に残るクリュニー浴場の[[カルダリウム]]]]
セーヌ川の中洲[[シテ島]]は古くからセーヌ川の渡河点であり、[[紀元前3世紀]]ごろから[[パリシイ族]]の集落[[ルテティア]]があった。[[紀元前1世紀]]、[[ガリア戦争]]の結果[[ルテティア]]は[[古代ローマ|ローマ]]支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡([[アレーヌ・ド・リュテス]])や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする[[城塞都市]]になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。
 
=== フランク王国 ===
67行目:
[[5世紀]]末に[[フランク族]]の王[[クロヴィス1世]]はパリを征服し、[[508年]]にはパリを[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ([[カール大帝]])以降の[[カロリング朝]]フランク王国の中心は[[ライン川]]流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。
 
[[885年]]から[[886年]]にかけてパリは[[ヴァイキング]]の襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世([[カール3世 (フランク王)|カール3世]])は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代って[[パリ伯]]の権威が上昇することになった。このころから[[セーヌ川|セーヌ]]川右岸側にも市街地が拡大した。
 
=== カペー朝 ===