「献穆曹皇后」の版間の差分

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建安25年([[220年]])、曹操が死去した後、魏王を継いだ兄は献帝に対し[[禅譲]]を迫った。その際、曹節は[[伝国璽]]を握って使者に渡さないようにし、使者が来ても激しく詰った。このやり取りは数日続いたが、ついに曹節が折れ「天に祝福されないのか」と言って伝国璽を投げ付け、涙を流した。これを見た周囲の者は顔を上げられなかったという。またこれと似た話として、[[前漢]]末に[[王莽]]が禅譲を迫った際、王莽の叔母[[王政君]]が同様に使者を詰り、伝国璽を投げつけたことがあったという。
 
献帝は禅譲によって山陽公となり、曹節は魏の公主となったことはない。山陽公夫人として従った。
 
献帝が[[青龍 (魏)|青龍]]2年([[234年]])に死去した後も、彼女は[[甘露 (魏)|甘露]]5年<ref>8月、[[景元]]元年に改元。彼女が何月に没したかは不明。</ref>(260年)まで生きた。この年は、[[曹髦]](高貴郷公)が[[司馬昭]]一派に白昼殺害されるという前代未聞の事件が起こった年であり、曹氏の衰退は誰の目にも明らかとなっていた。