「八月十八日の政変」の版間の差分

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===[[ 薩英戦争]] ===
[[ファイル:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|thumb|250px|祇園之洲・新波戸砲台の[[絵巻物]]]]
 
[[ファイル:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|thumb|250px|祇園之洲・新波戸砲台の[[絵巻物]]]][[薩摩藩|薩摩]]本国では、文久3年6月27日に7隻の[[イギリス]]艦が[[鹿児島湾|錦江湾]]に現れ、4日後に交渉が決裂すると薩摩側の砲撃が開始された。[[山内容堂]]は、家臣を派遣して戦争の詳報を得た後、8月2日付の[[伊達宗城]](前[[宇和島藩]]主)<ref group="注釈">島津斉彬・松平春嶽・山内容堂とともに「四賢侯」と呼ばれた旧一橋派の有志大名。</ref>宛の書簡で、「わが国体を辱めず、感服の至り」「長州の暴挙とは天地の相違」と感想を述べた。[[島津久光]]も、8月5日付の宗城宛書簡で、下関の件は「笑止之事」とし、薩英戦争については「あくまで開諭(示談)するつもりで再三応接したが、蒸気船3艘を奪取されたため(これを敵の襲来と認めて)砲撃した」と伝えている(書状到達は9月16日)。薩摩側は、敵が襲来すれば撃ち払えという幕府の通達に則って砲撃を開始したのである。また8月6日、[[長州藩]]の使者から攘夷実行について協力を求められた宗城は、「外国への対処は征夷府(幕府)に委任されており、その命令によって対処すべき」として断っている。
===[[薩英戦争]]===
[[ファイル:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|thumb|250px|祇園之洲・新波戸砲台の[[絵巻物]]]][[薩摩藩|薩摩]]本国では、文久3年6月27日に7隻の[[イギリス]]艦が[[鹿児島湾|錦江湾]]に現れ、4日後に交渉が決裂すると薩摩側の砲撃が開始された。[[山内容堂]]は、家臣を派遣して戦争の詳報を得た後、8月2日付の[[伊達宗城]](前[[宇和島藩]]主)<ref group="注釈">島津斉彬・松平春嶽・山内容堂とともに「四賢侯」と呼ばれた旧一橋派の有志大名。</ref>宛の書簡で、「わが国体を辱めず、感服の至り」「長州の暴挙とは天地の相違」と感想を述べた。[[島津久光]]も、8月5日付の宗城宛書簡で、下関の件は「笑止之事」とし、薩英戦争については「あくまで開諭(示談)するつもりで再三応接したが、蒸気船3艘を奪取されたため(これを敵の襲来と認めて)砲撃した」と伝えている(書状到達は9月16日)。薩摩側は、敵が襲来すれば撃ち払えという幕府の通達に則って砲撃を開始したのである。また8月6日、[[長州藩]]の使者から攘夷実行について協力を求められた宗城は、「外国への対処は征夷府(幕府)に委任されており、その命令によって対処すべき」として断っている。
 
幕府の方針を前提とする限り、薩英戦争は称賛されても、長州の武力攘夷は他藩の理解を得られない。長州は、いよいよ攘夷委任から攘夷親征への転換に突き進まなければならなかった。