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{{複数の問題|
独自研究 = 2014年8月|
正確性 = 2014年8月
出典の明記 = 2018年8月}}
{{Infobox 哲学者
| region = [[西洋哲学]]<br />[[イギリス]]
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主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治[[政党]]の定義づけをおこない、近代[[政治哲学]]を確立した。文章家・演説家でもあり、{{要出典範囲|バークの著作は今日でも[[英文学]]に重要な位置を占めており、イギリスの国会議員にはバークで演説を訓練するものが多い。|date=2018-08}}
== 哲学 ==
{{保守}}
=== 骨格 ===
合法的な残虐を犯した元[[インド総督]]の[[弾劾]]演説(1788年)では、「国民の大半の[[利益相反|利益]]に反する法は、道理を踏まえた制度という性質を持たないから、[[権威]]を持たない。なぜなら、いかなる政体においても、真の立法者は国民であるからである。…法を究極的に基礎づけかつ動かすものは、国民の明示的ないし黙示的な[[合意]]である」として、適切かつ十分な人間の力と、国民に法的判断の権利や義務を持たせるための公正な[[憲法]]の必要性を説いた<ref>[[カール・ヨアヒム・フリードリッヒ]]『伝統と権威 権力と正当性と権威』[[三辺博之]]訳、p.p. 146。[[福村出版]]、1976年。Carl J. Friedrich, ''Tradition and Authority''. Phaidon, London, 1972.</ref>。
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国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と「王の友」と呼ばれた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員たちが[[名誉革命]]以降制限された諸権限を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により[[政党政治]]の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。
植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」「和解の提案」を記し、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済上・刑罰上の規制緩和を訴えた。さらに、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]による腐敗したインド統治を是正するため、[[インド法]]案の起草者となる。初代[[インド総督]]である[[ウォーレン・ヘースティングズ]]に対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を始め、1794年に自身が議員を引退するまで続けた
[[ブリストル]]選挙区から立候補した際には、近代デモクラシーの代表制における「[[国民代表]]」の観念で有名な[[ブリストル演説]]をおこなっている。
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== 日本における研究状況 ==
{{出典の明記|section=1|date=2018-08}}
日本に初めてバークを紹介したのは[[金子堅太郎]]である。[[1881年]]、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として[[元老院 (日本)|元老院]]から刊行した。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]の[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]主義への批判が目的であった。
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[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を[[伊藤博文]]の秘書官に任用して、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。
{{要出典範囲|しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるため、ドイツ法を範にされることになった。その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおき、イギリス憲法学を排除したことによって、[[エドワード・コーク|コーク]]や[[ウィリアム・ブラックストン]]とともに、バークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本では[[ドイツ観念論]]や[[マルクス主義]]がもてはやされたことから、バークの存在は省みられなかった。|date=2018-08}}
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは[[小松春雄]]による研究、これに[[岸本広司]]が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist2|2}}
===出典===
{{Reflist|2}}
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