「エドマンド・バーク」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{複数の問題|
独自研究 = 2014年8月|
正確性 = 2014年8月}}|
出典の明記 = 2018年8月}}
{{Infobox 哲学者
| region = [[西洋哲学]]<br />[[イギリス]]
30 ⟶ 31行目:
主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
 
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治[[政党]]の定義づけをおこない、近代[[政治哲学]]を確立した。文章家・演説家でもあり、{{要出典範囲|バークの著作は今日でも[[英文学]]に重要な位置を占めており、イギリスの国会議員にはバークで演説を訓練するものが多い。|date=2018-08}}
 
== 哲学 ==
{{保守}}
=== 骨格 ===
<ref>{{efn2|この項目の参考文献として「エドマンド・バーク著『新ホイッグ党員から旧ホイッグ党員への訴え』について」森本哲夫(九州大学大学院法学研究科Jounal of law and politics1969-02-25)[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/1583/4/KJ00000694881-00001.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/110006262130]を利用している。</ref>}}バーク保守主義はフランス革命により提示された〈[[社会契約]]〉ではなく、〈本源的契約〉を重視する。多年にわたり根本的に保持してきたものの中に〈本源的契約〉の存在を見、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくとする政治哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた目に見えぬ“法([[コモン・ロー]])”や道徳、あるいは階級や国家はもちろんの事、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない“'''[[イギリスの憲法|時効の憲法]]'''(prescriptive Constitution<ref>{{efn2|「規範的な、慣習的な、時効成立した、伝統に裏付けられた」「命法、憲法、基本法」のこと。「時効の憲法」の邦訳については「金子堅太郎『政治論略』研究(日本大学精神文化研究所)六、付論・Eバークの憲法(Cinstitution)観」による。</ref>}})”があると看做す。
 
合法的な残虐を犯した元[[インド総督]]の[[弾劾]]演説(1788年)では、「国民の大半の[[利益相反|利益]]に反する法は、道理を踏まえた制度という性質を持たないから、[[権威]]を持たない。なぜなら、いかなる政体においても、真の立法者は国民であるからである。…法を究極的に基礎づけかつ動かすものは、国民の明示的ないし黙示的な[[合意]]である」として、適切かつ十分な人間の力と、国民に法的判断の権利や義務を持たせるための公正な[[憲法]]の必要性を説いた<ref>[[カール・ヨアヒム・フリードリッヒ]]『伝統と権威 権力と正当性と権威』[[三辺博之]]訳、p.p. 146。[[福村出版]]、1976年。Carl J. Friedrich, ''Tradition and Authority''. Phaidon, London, 1972.</ref>。
75 ⟶ 76行目:
国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と「王の友」と呼ばれた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員たちが[[名誉革命]]以降制限された諸権限を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により[[政党政治]]の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。
 
植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」「和解の提案」を記し、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済上・刑罰上の規制緩和を訴えた。さらに、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]による腐敗したインド統治を是正するため、[[インド法]]案の起草者となる。初代[[インド総督]]である[[ウォーレン・ヘースティングズ]]に対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を始め、1794年に自身が議員を引退するまで続けた<ref>{{efn2|[[庶民院]](下院)では7年間の調査のあいだに計148日の議会が開かれたが、1895年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]がヘースティングズを放免した。</ref>}}
 
[[ブリストル]]選挙区から立候補した際には、近代デモクラシーの代表制における「[[国民代表]]」の観念で有名な[[ブリストル演説]]をおこなっている。
138 ⟶ 139行目:
 
== 日本における研究状況 ==
{{出典の明記|section=1|date=2018-08}}
日本に初めてバークを紹介したのは[[金子堅太郎]]である。[[1881年]]、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として[[元老院 (日本)|元老院]]から刊行した。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]の[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]主義への批判が目的であった。
 
144 ⟶ 146行目:
[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を[[伊藤博文]]の秘書官に任用して、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。
 
{{要出典範囲|しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるため、ドイツ法を範にされることになった。その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおき、イギリス憲法学を排除したことによって、[[エドワード・コーク|コーク]]や[[ウィリアム・ブラックストン]]とともに、バークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本では[[ドイツ観念論]]や[[マルクス主義]]がもてはやされたことから、バークの存在は省みられなかった。|date=2018-08}}
 
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは[[小松春雄]]による研究、これに[[岸本広司]]が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。
153 ⟶ 155行目:
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist2|2}}
===出典===
{{Reflist|2}}