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'''崔 龍洙'''(チェ・ヨンス、{{ko|최용수}} [[1973年]][[9月10日]]-)は[[大韓民国]]・[[釜山広域市]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]、指導者。韓国では'''トクスリ'''({{lang|ko|독수리}}、[[ハゲワシ]])の愛称で呼ばれている。
 
同姓同名の[[ボクシング]]元[[世界ボクシング協会|WBA]]世界スーパーフェザー級王者も存在するが、全くの別人である。<!-- ちなみに面識は互いにあるとのこと。 -->== 来歴 ==
国際Aマッチ47試合出場25得点(当時)の現役韓国代表FWとして2001年に[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]に加入。入団初年度に21得点をたたき出すなど挙げ、2年連続で目もチーム最多得点を挙げエースとして君臨。左サイドの[[村井慎二]]とのホットラインは市原の名物ともなっていた。<!-- その後移籍したものの、ジェフ史上における最強の助っ人として今もなお、ジェフの歴史に残る。2003年には[[イビチャ・オシム|オシム]]監督と起用法をめぐり対立。-->
 
2004年には当時[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン2 (J2)|J2]]だった[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]に移籍する。2005年には[[ジュビロ磐田]]に移籍したが、度重なるけが怪我のためレギュラーではなかった。[[2006年]]に韓国に戻り、[[Kリーグ]]・[[FCソウル]]で選手兼任コーチとしてプレーした。2006年[[8月5日]]の[[FC東京]]との親善試合を最後に現役を引退。引退後、FCソウルコーチに就任。2011年4月にリーグ戦での不振から[[皇甫官]]監督が辞任する事態となり、監督代行に就任。同年12月に正式に監督となった。
== 来歴 ==
国際Aマッチ47試合出場25得点(当時)の現役韓国代表FWとして2001年に[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]に加入。入団初年度に21得点をたたき出すなど、2年連続でチーム最多得点を挙げエースとして君臨。左サイドの[[村井慎二]]とのホットラインは市原の名物ともなっていた。<!-- その後移籍したものの、ジェフ史上における最強の助っ人として今もなお、ジェフの歴史に残る。2003年には[[イビチャ・オシム|オシム]]監督と起用法をめぐり対立。-->
 
2004年には当時[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン2 (J2)|J2]]だった[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]に移籍する。2005年には[[ジュビロ磐田]]に移籍したが、度重なるけがのためレギュラーではなかった。[[2006年]]に韓国に戻り、[[Kリーグ]]・[[FCソウル]]で選手兼任コーチとしてプレーした。2006年[[8月5日]]の[[FC東京]]との親善試合を最後に現役を引退。引退後、FCソウルコーチに就任。2011年4月にリーグ戦での不振から[[皇甫官]]監督が辞任する事態となり、監督代行に就任。同年12月に正式に監督となった。
 
2016年7月に中国スーパーリーグ[[江蘇蘇寧足球倶楽部]]の監督に就任。
 
==人物・エピソード==
*若い頃は闘争心を剥き出しにする選手で、ユース時代の日本戦で試合後に日本ベンチにボールを蹴りこんだことがある。1993年ワールドユースオーストラリア大会アジア最終予選(兼[[AFC U-19選手権]])が1992年9月からUAEで開催され、出場権を懸け[[西野朗]]監督率いるU-19日本とU-19韓国が準決勝で対戦した(当時のU-20W杯のアジアの出場枠は2)。試合は終了8分前の韓国チョウ・ヒュンのゴールで韓国が2-1で勝利し出場を決めたが、終了後、静まり返った日本ベンチに、崔龍洙がボールを蹴りこんだ。当時の日本のコーチ[[山本昌邦]]によれば『興奮して、転がってきたボールを崔めがけて蹴り返したが、キックが正確でなかった(崔に当たらなかった)。もしボールが当たっていれば大問題になっていたが、とにかく悔しくて、その日の夜は眠れなかった』とのこと<ref> [http://www.masakuni-yamamoto.com/books.html 山本昌邦著 日本サッカー遺産 ワールドカップ出場舞台裏の歴史と戦略P104~P105 93年オーストラリアワールドユース] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100722061034/http://www.masakuni-yamamoto.com/books.html |date=2010年7月22日 }}</ref>。日本代表の[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]だった[[川口能活]]はこの行為に激怒したが、崔がその後謝罪したため、磐田では仲はよかった
*[[1997年]]、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]として[[1998 FIFAワールドカップ|フランスW杯]]アジア予選出場時、試合前の国歌吹奏(または斉唱)を他のチームメイトは胸に手を置きながら聴いていたのに対し、崔はただ1人、敬礼しながら聴いていた(当時兵役中の身で、韓国国軍のチーム「[[光州尚武フェニックス|尚武]]」に所属していた)。
*Jリーグにやってきた頃は、日本人選手たちからは「パスが来なくて練習にならなかったし、ユースの子は挨拶もしなかった。古参はそれを見て楽しんでいたよ」「ゴールを入れて実力を見せたら、私を認めてくれて親しくなった」などと述べており、韓国では「若い選手が、チェ・ヨンスの家まで訪ねて洗車したり、180度態度が変わった。日本人選手たちのなかで実力を見せつけ、“ボス”の座に駆け上がったのだ」と報じられている<ref>ootball-zone 2018.08.10 元韓国代表の英雄FW、「日本時代のいじめ」を衝撃告白 「パスが来なくて…」[https://www.football-zone.net/archives/127491]</ref>。
*Jリーグにやってきた頃には既に周りをまとめる年長者としての自覚が備わっており、市原時代は若手選手をまとめることを意識してパーティーを開いたりしていたことを同僚達が証言している。磐田では度重なる怪我に苦しんだが、[[カレン・ロバート]]から自分はどうプレーしたほうがよいのかと質問された際に「若い選手は自分をアピールすべき。ベテランはそれに合わせるから」とアドバイスし、カレンのブレイクに一役買った。
*崔は日本サッカーに関して「Jリーグは前線よりも中盤に重点を置いているため、よいFWが育ちにくい環境にある。[[鈴木隆行|鈴木]]も[[玉田圭司|玉田]]も[[柳沢敦|柳沢]]も自分から点を取るタイプではないだろう。本物のストライカーと呼べるのは[[高原直泰|高原]]と[[中山雅史|ゴン中山]]さんくらいだろう」「特にゴン中山さんのあのプロ魂には感服する、だから40を過ぎてもまだサッカーを続けていられるんだ。若いカレンや[[前田遼一|前田]]はゴン中山さんを見習えばもっと成長する」とコメントしている。
*強面の風貌とは裏腹に市原時代はロッカールームで[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]の『[[ワインレッドの心]]』をご機嫌で熱唱していた(日本語もかなり流暢だったという)、また好物は[[ショートケーキ]]など親しみやすい人柄を覗かせる逸話がある。
*市原で同僚だった[[巻誠一郎]]に慕われており、崔も彼を大切にしていた。[[2016年]]に発生した[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]で被災した巻に、[[AFCチャンピオンズリーグ]]での会見の際にメッセージも送っている<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/1648892.html FCソウル崔龍洙監督“弟分”熊本FW巻にエール] - [[ニッカンスポーツ]] 2016年5月17日</ref>。