「料理の鉄人」の版間の差分

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*番組本などの回想を確認する限り、どの鉄人と戦うかは、特に挑戦者からの希望がない限りはオファーの段階から基本的に事前に決まっていた。主宰の呼びかけによって3人の鉄人が勢揃いする映像が有名だが、番組収録時には対戦のある鉄人のみがスタジオに来ており、登場シーンは使い回しの勢揃い映像と、実際に収録する1人だけ立っている鉄人の映像を巧みに編集していた。挑戦者によっては勢揃いの場合もあり、指名されなかった鉄人の帰り間際のコメントが番組内で紹介されたこともある。陳や坂井は自らが負け続けた時など、「自分だったらどうするか」とシミュレーションするため他の鉄人の対戦によく立ち会っていたという<ref>「料理の鉄人大全」 p.151</ref>。
*一方で番組初期の頃は、番組自体の知名度が低かった上に「料理人同士が対決する」というコンセプトが必要以上に警戒されたため、予定していた挑戦者が収録直前になって番組出演を辞退したり、収録自体をすっぽかしたりするケースも多かったという<ref>「料理の鉄人大全」 pp.55 - 58</ref>。しかし番組がメジャーになると逆に「挑戦者に選ばれるだけでステータスが上がる」となったため、前述の通り出演希望者が多数現れる状態となった<ref name=pp76 />。
*番組の冒頭においては司会の鹿賀が挑戦者の名前や経歴などを紹介し、この時に挑戦者の年齢も紹介するのが基本であったが、挑戦者が女性である場合は、(全員ではないが)挑戦者の年齢を言わないことが多かった。1996年11月1日放送の回では、女性挑戦者の年齢をふざけたように「'''ン~歳'''」と言った描写演出もあった。
*道場は神田川の弟子との甘鯛対決の際に番組最多の8品を作ると宣言していたが、結局間に合わずタイムアップ後も作業を行っていた。当然神田川サイドからの抗議をうけ、話し合いの結果(オンエア上はカット)間に合わなかった料理をカットすることとなった。だが、残りの料理の出来は大きく評価され(豆腐にフォアグラ、トリュフを混ぜ、それを甘鯛で包んで蒸すという道場らしい独創性が冴え渡っていた)勝利をおさめた。
*中村はキャビア対決の時に「キャビアをおいしく食べるのはこの方法しかない」として、キャビアに合う食材、料理を用意してその上にキャビアをのせて食べるという料理を(実質この1品のみ)作って勝利したことがある。
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*スタジオのセットはロンドンの[[ハロッズ]]の食品売り場をイメージしたものである。
*かつてひらまつグループが経営していたイタリア料理店「ヴィノッキオ」のシェフであったが、同乗者が死亡した交通事故をきっかけに消息を絶った山田宏巳が挑戦者として登場。陳との「キャベツ対決」で勝利の後メディアからの注目を浴び、「リストランテ・ヒロ」をオープンさせて料理界に復帰し、どん底からの復活として大きな話題となったものの、[[2006年]][[4月]]に[[大麻]]所持で逮捕された。その後、彼は再び料理界への再復帰を果たし、2013年2月15日放送の『アイアンシェフ』ではノミニーとして登場し、中華のアイアンシェフ・脇屋友詞との「キャベツ対決」を制した。
*かつてイタリア料理界の巨匠ジャンフランコ・ヴィッサーニので料理長を務めながらも日本では自分の腕を発揮できる店がないという理由で料理界から離れ、トラックの運転手をしていた小林幸司も、同じく挑戦者として陳との「カボチャ対決」で勝利し、後に「リストランテ・マリーエ」の料理長として料理界に復帰した。その後、小林の師であるヴィッサーニも『鉄人ワールドカップ』(後述)に出場し、道場との「[[カモ]]対決」で名勝負を展開した。
*大阪在住の追立久夫が挑戦者として出演した回は、[[1995年]]1月20日に放送された。ところが、放送日の3日前に[[阪神・淡路大震災]]が発生したため、この回は追立本人の地元である大阪では放送されず、追立は無念の思いを隠せなかったという。
*2006年秋には[[東京電力]]のオール電化キッチンの宣伝に陳(同年春から出演)・坂井・道場が出演し、1人ずつで[[焜炉#IHクッキングヒーター|IHクッキングヒーター]]の使い心地を試すバージョンが製作された。印刷物や看板では3人が鉄人シェフを模したコスチュームで登場している。