「川路聖謨」の版間の差分

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== 人物・逸話 ==
*生まれは極度の貧困の中、両親の極めて厳格な教育を受けて育った。後年、弟の[[井上清直(外国奉行、勘定奉行)]]とともに、両親の愛情と苦労を偲んで2人して泣いたという。
*子供の時に[[疱瘡]]を患い、あばたの跡を沢山残す。眼は金壺眼で、引っ込んでいる。後年、半身不随になってしまう。
*日課は超人的である。午前2時に起きて執筆、読書をし、夜が白んでくると庭に出て、刀の素振りと槍のすごきを平均2千回行う。その後来客の相手をし、午前10時に江戸城に登城、午後5時まで勤務する(この時代の役人の勤務は普通10時から2時まで)。家に戻るとすでに客が待ち構えているので、一緒に晩飯を食べながら話を聞く。酒は飲んだが1合までで、それ以上は絶対に飲まない。客の応接が済むのが午後10時ごろで、それからまた執筆、読書をして十二12時に寝る。睡眠時間はわずか2時間、気が張っていたため平気だったといわれている。
*佐渡奉行時、金山採掘に従事する鉱夫、人足の悲惨な情況について記録している。
*5年間奈良奉行を勤めたが、その間に川路の呼びかけにより、桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹したという。それを記念する石碑が奈良市興福寺近くに植桜楓之碑として残っており、碑文は川路の自筆だといわれている。また貧民救済に尽力している。
*日露交渉の応接でロシア側は川路の人柄に魅せられて、その肖像画を書こう(写真をとろう)とするが、それを聞いて川路はロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し彼らを笑わせた。この時、プチャーチンに随行していた[[イワン・ゴンチャロフ]]は次のように書いている。
*:「川路を私達はみな気に入っていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」
*プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。
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| accessdate=2013年1月25日
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*日本でのピストル自殺第1号といわれている。
*三代目桂米朝の口演による落語「鹿政談」では根岸肥前守の代わりに奈良奉行時代の川路が主人公となっている。
 
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*『[[幕末のスパシーボ]]』
*[[江戸時代の人物一覧]]
 
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[[Category:樺太史の人物]]
[[Category:日露関係史]]
[[Category:川路家|としあきら]]
[[Category:自殺した人物]]
[[Category:豊後国の人物]]