「一〇〇式輸送機」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2018年8月}}
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{{ Infobox 航空機
| 名称= キ57 一〇〇式輸送機
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[[File:Mitsubishi Ki-57 Topsy wrecked.jpg|thumb|right|250px|1945年、終戦直後の[[調布飛行場|調布陸軍飛行場]]における[[第1航空軍 (日本軍)|第1航空軍]]司令部飛行班([[陸軍飛行戦隊#部隊マーク|部隊マーク]]「[[日章]]」)所属であった一〇〇輸ニ型(キ57-II)]]
[[File:Ki-21 97juubaku b.jpg|thumb|right|250px|一〇〇輸の原型となった九七重爆(一型甲、キ21-I甲)]]
 
[[1939年]](昭和14年)、陸軍は三菱に対して[[九七式輸送機]](キ34)の後続である新型輸送機'''キ57'''の開発を指示した。指示の主な内容は'''[[九七式重爆撃機]]'''(キ21)の胴体部分を改設計し、人員輸送を主目的とするというものだった。[[1940年]](昭和15年、[[神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''00'''年)に初飛行した本機の諸性能は、母体である九七重爆の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はなかったため'''一〇〇式輸送機'''として制式採用された。
 
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[[1942年]](昭和17年)には、エンジンを[[ハ102]](出力1,080hp)に換装し主翼の強化や貨物室の増設を行った'''一〇〇式輸送機二型'''('''キ57-II''')が登場し、陸軍の主力輸送機として人員・物資輸送、[[グライダー]]曳航などの任務で[[日本の終戦|終戦]]まで活躍した。二型(キ57-II)において行われた改修はエンジン換装と主翼強化の他は以下のようなものである。
 
::・中央翼燃料タンクに排出装置を設置(23号機から)
::・客室窓を利用した非常脱* 中央翼燃料タンクに排口の装置を設置(2(23号機から)
::・航法* 客窓を利用した非常脱出口(23置(2号機から)
::・尾輪を回転式に変更(100* 航法室の移設(23号機から)
* 尾輪を回転式に変更(100号機から)
::・* 翼前縁とプロペラに防氷装置を設置
::・* 集合排気管を外側にだけ開口(1号機から)
::・* 客席の15席への増加(405号機から)。17~19人用の長椅子に変更も可能
::・* 滑空機の曳航装置の追加(1944年3月試作、同年8月以降標準装備)
 
[[1941年]](昭和16年)から[[1945年]](昭和20年)1月まで、三菱において軍用民用合わせて一型101機、二型406機の合計507機が製造された。1945年1月以降、製造は[[日本国際航空工業]](現・[[日産車体]])に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている<ref>10機製造とする資料あり。</ref>。これは戦前の国産輸送機・[[旅客機]]としては最多であった。
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=== MC-20 ===
{{main|三菱MC-20}}
 
軍用輸送機である一〇〇輸は'''[[三菱MC-20|MC-20]]'''(MC20)の名称で民間用旅客機としても転用・製造され、[[大日本航空]]や[[朝日新聞社]]はじめ[[航空会社]]・[[新聞社]]などで多数機が使用された。MC-20はその存在を当時から各メディアで喧伝され<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300452_00000&seg_number=007 「国産優秀機 MC二〇」] - [[日本ニュース]]第67号 1941年9月16日(NHKデジタルアーカイブ)</ref>、知名度も高かったことから一〇〇輸は陸軍内部においても「'''MC輸送機'''」と呼称されることが多かった。
 
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}