「御堂関白記」の版間の差分

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『'''御堂関白記'''』(みどうかんぱくき)は、[[平安時代]]の[[貴族]]の[[摂政]][[太政大臣]]・[[藤原道長]]が著した[[日記]]。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。[[近衛家]]の[[陽明文庫]]が所蔵する自筆本 14 巻、古写本 12 巻が伝わる。[[国宝]]に指定<ref name=kuramoto />。現存する世界最古の直筆日記とされ、[[平成]]23年([[2011年]])5月には、[[ユネスコ記憶遺産]](世界の記憶)に推薦、平成25年([[2013年]])[[6月18日]]に登録された<ref>{{Cite web
| title = Midokanpakuki: the original handwritten diary of Fujiwara no Michinaga
| work =
| publisher = ユネスコ
| url = http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-5/midokanpakuki-the-original-handwritten-diary-of-fujiwara-no-michinaga/
| accessdate = 2013-06-19}}</ref>。
 
== 概要 ==
「御堂」とは、藤原道長建立の[[法成寺]]無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として[[関白]]となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。
藤原道長は[[平安時代]]の[[貴族]]の[[摂政]][[太政大臣]]で、[[一条天皇|一条]]、[[三条天皇|三条]]、[[後一条天皇|後一条]]の 3 代にわたって[[左大臣]]や[[内覧]]を歴任し、『日記』ではその間の詳細を綴り、同時代の貴族が記した『[[小右記]]』([[藤原実資]])、『[[権記]]』([[藤原行成]])などとともに、当時の貴族社会を知る重要な[[史料]]となっている。
 
道長は生前、一度として[[関白]]となっていない。「御堂」の名称は、晩年の道長が[[法成寺]]無量寿院を建立して「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによる後世の呼称である。しかし「御堂関白記」の呼称は江戸時代にはすでに通称になっていたようである。
道長は、政権を獲得した[[長徳]]元年([[995年]])から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、[[寛弘]]元年([[1004年]])からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年([[998年]])から[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])の間の記事である。[[近衛家]]の[[陽明文庫]]が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、[[国宝]]に指定されている<ref>倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上巻、「はじめに」</ref>。
 
平安末期までに36巻が存したとされるが、現存するものは、長徳4年([[998年]])から[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])の間の記事で<ref name=kuramoto>倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上巻、「はじめに」</ref>、直筆本 14 巻が伝わっている。古写本の筆者について従来道長の長男[[藤原頼通|頼通]]によるものとされていたが根拠は乏しく、現在は頼通の子[[藤原師実|師実]]か師実猶子も[[藤原忠実|忠実]]によるものと考えられている。本書を後世に抜き出した『御堂御記抄』などの断簡も残り、それによると、道長は『日記』の日付から 3 年を遡る政権を獲得した[[長徳]]元年([[995年]])には日記を記し始め、何回かの中断を経た後、[[寛弘]]元年([[1004年]])からは継続的に書き続けていたことがわかっている。
『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ[[藤原摂関家]]の[[藤原忠実]]による『[[殿暦]]』、[[藤原師通]]による『[[後二条師通記]]』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる<ref>例として、「考を定む」という意味では「定考」という語順で「じょうこう」と訓むべきところ、「[[太上天皇|上皇]]」に通じることを避けるために「考定」と書いて「こうじょう」と訓む例が多いという(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」)。</ref>。
 
御堂関白記』は[[具注暦]]に書かれており意味不明な筆跡には道長の性格のおおらかさが看てとれる。内容は簡潔ながら、当て字、脱字、誤字、また重ねて字を書いていたり、塗抹(とまつ、塗り潰し)、傍書、省略、転倒などが散見する特異な文体となっており、文の意味が不明だったり、文法的誤りが多く、解釈が難しい。このような文筆は同じ[[藤原摂関家]]の[[藤原忠実]]による『[[殿暦]]』、[[藤原師通]]による『[[後二条師通記]]』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる<ref>例として、「考を定む」という意味では「定考」という語順で「じょうこう」と訓むべきところ、「[[太上天皇|上皇]]」に通じることを避けるために「考定」と書いて「こうじょう」と訓む例が多いという(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」)。</ref>。
道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという<ref>『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」</ref>。同時代の貴族が記した日記、『[[小右記]]』([[藤原実資]])、『[[権記]]』([[藤原行成]])とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ[[史料]]である。
 
なお、寛弘5年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]([[1009年]][[1月18日]])条の裏書には[[近衛道嗣]]の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは[[近衛信尹]]とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年([[1008年]])の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の[[近衛信尋]]がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという<ref>倉本一宏「史料紹介・『御堂関白記』自筆本の裏に写された『後深心院関白記』」『日本研究』44号掲載、445 - 462頁、2011年。ただし同稿に示された写真には「裏有信尹公」云々と「有」字が見える。</ref>。
 
道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという<ref>『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」</ref>。同時代の貴族が記した日記、『[[小右記]]』([[藤原実資]])、『[[権記]]』([[藤原行成]])とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ[[史料]]である
[[平成]]23年([[2011年]])5月、[[ユネスコ記憶遺産]](世界の記憶)に推薦され、平成25年([[2013年]])[[6月18日]]に登録された<ref>{{Cite web
 
| title = Midokanpakuki: the original handwritten diary of Fujiwara no Michinaga
文法の乱れによる解釈から、戦前には[[黒板勝美]]らが、摂関政治は天皇家に代わって国政の全般を掌握していたとする[[政所#「政所政治」説|政所政治説]]を唱えていたが、現在は『日記』の内容から政所の下文や御教書は摂関家内部の私的な通達に過ぎないとされ、説は否定されている。
| work =
| publisher = ユネスコ
| url = http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-5/midokanpakuki-the-original-handwritten-diary-of-fujiwara-no-michinaga/
| accessdate = 2013-06-19}}</ref>。
 
== 刊行されている「現代語訳 ==
*[[倉本一宏]]『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上中下巻([[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、[[2009年]])
:初の現代語訳。
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== 参考文献 ==
* 大津透・池田尚隆編『藤原道長事典』 思文閣出版、2017年。ISBN 9784784218738
 
== 脚注 ==