「岡田以蔵」の版間の差分

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: [[本間精一郎]]は[[越後国]]出身の勤皇の[[志士]]の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた。そこへ[[久邇宮朝彦親王|青蓮院宮]]と[[山内容堂]]との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された(但し異説もあり、屋内にいた人物が本間と刺客が刀で打ち合う「炭をぶつけ合うような」音を聞いたという証言もある)。本間も殺害されたあと、[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]へと投げ込まれた。このときの実行犯は以蔵をはじめ、[[平井収二郎]]・[[島村衛吉]]・[[松山深蔵]]・[[小畑孫三郎]]・[[弘瀬健太]]・[[田辺豪次郎]]、そして薩摩の人斬りこと[[田中新兵衛]]であった。
; 宇郷重国殺害(文久2年閏8月22日)
: [[宇郷重国]](うごう しげくに)は官名を玄蕃頭(げんばのかみ)といい、前関白[[九条家]]の[[諸大夫]]であった。[[安政の大獄]]の際、同じ九条家の侍臣[[島田正辰|島田左近]]と共に志士弾圧を行い、また[[和宮親子内親王|和宮]]降嫁推進にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていた。島田暗殺(同年7月21日)以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、この日は九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を以蔵、岡本八之助、[[村田忠三郎]]及び[[肥後国|肥後]]の[[堤松左衛門]]に急襲された。飛び起きて逃げようとしたところを以蔵に斬り倒され、子息も堤によって殺害された。宇郷の首は[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]河岸に槍に刺し捨札と共に晒された。以上は『官武通記』による記録であるが、実行犯については異説があり、以蔵の加担を疑問視する向きもある。
; 文吉殺害(文久2年閏8月30日)
: 猿の文吉(ましらのぶんきち)は、安政の大獄時に島田左近の手先として多くの志士を摘発した[[岡っ引|目明し]]であった。また、島田の[[高利貸し]]の手伝いをして金子を法外に得ていた事などから、志士達から強い恨みを買っていた。そのため天誅に参加を希望する者が相次ぎ、[[籤引き]]による人選をしたという話が伝えられる。選ばれた以蔵、[[清岡治之介]]、[[阿部多司馬]]の3人は閏8月30日の夜に文吉を自宅から拉致して三条河原へ連行し、裸にして河原の杭に縛り付けた上で、「斬るのは刀の穢れになる」として細引(細い紐)で絞殺、竹の棒を[[肛門]]から体内を貫通させて頭まで通され、更に[[亀頭]]に[[釘]]を打たれて晒された(かつて文吉が[[京都御所|御所]]の女官を犯して罰せられたことに対する仕打ちとされる)。文吉は高利貸しの厳しい取り立てを行なっていたことから民衆にも嫌われており、遺体に投石する者もあったという。なお、この際の捨札に「[[イヌ|いぬ]]」と書いたため、ここから権力者の手先となって動く者を指す「'''○○の犬'''」という慣用が生まれたという説がある。
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: 平野屋寿三郎<ref>松岡[2014:76-77]によると名前は重三郎とされている。なお、同書に生き晒しの図がある。</ref>(ひらのや じゅさぶろう)、煎餅屋半兵衛(せんべいや はんべえ)は、共に商人ながらこの年5月の勅使[[大原重徳]]東下の際に[[士分]]となり供をしていたが、収賄や横領などを行ったため評判が悪かった。それがまたこの月の勅使に随行するというので、朝廷の威信失墜を懸念した長州、土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることとした。土佐からは以蔵、[[菅野覚兵衛|千屋寅之助]]、[[五十嵐幾之助]]らが、長州からは[[寺島忠三郎]]らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしたが、町人であり家族の助命嘆願もあったために殺害はせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにした。
; 多田帯刀暗殺(文久2年11月15日)
: [[多田帯刀]](ただ たてわき)は、[[長野主膳]]の妾[[村山たか|村山加寿江]](むらやま かずえ、可寿江とも。[[村山たか]]とする資料もある)の子で、[[鹿苑寺|金閣寺]]の寺侍であったが、やはり長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされた。14日夜、島原[[遊郭]]近くにある加寿江の家を浪士らが襲撃、寝ていたところを引き出して三条大橋の袂に生き晒しにした。翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を[[蹴上刑場]]へ連行の上、殺害。首は粟田口に晒した。加寿江は女ということもあってか殺害こそされなかったが、三日三晩生き晒しにされたという。この襲撃には合計20名が参加し、長州の[[楢崎八十槌]]、土佐の[[小畑孫三郎]]、[[河野敏鎌|河野万寿弥]]、[[依岡珍麿]]、千屋寅之助らと共に、以蔵も加わっていたとされる。このうち、依岡は[[大正]]まで存命して、この事件を語り遺している。
; 池内大学暗殺(文久3年1月22日)
: [[池内大学]]は、元々は[[知恩院|知恩院門跡]]に仕えた尊皇派の[[儒学]]者であった。条約勅許問題や将軍後継問題などで策謀を巡らせたため、安政の大獄において幕府からの厳しい追及を受けたが、観念して自首したために比較的軽い罪になった。これが尊攘派志士の目に「幕府に寝返った」と映り、狙われた。大学は変名のうえ大阪に潜伏していたが、おりしも大阪に来ていた山内容堂の酒宴に招かれ、その帰りを襲われた。首は[[難波橋]]に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に[[正親町三条実愛]]、[[中山忠能]]の屋敷に投げ込まれ、両公卿の辞職を招くこととなった。この事件においては以蔵の名前だけが挙げられ、他に数名居たとされる刺客の正確な人数や構成は伝わっていない(以蔵は関与していないという説もある)。