「岡林信康」の版間の差分

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=== フォークシンガーとして ===
 
[[1968年]]、京都で行われた第3回[[フォークキャンプ]]に参加。同年9月、[[山谷 (東京都)|山谷]]に住む[[日雇い]]労働者を題材とした「[[山谷ブルース]]」で[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]よりレコードデビュー。翌年までに、「[[友よ (岡林信康の曲)|友よ]]」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「[[くそくらえ節]]」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が[[放送禁止]]となる。当時、岡林とともに高石友也、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった<ref>http://www.warewaredan.com/folk01.html</ref>。なかでも岡林は一世を風靡し、'''「フォークの神様」'''と言われたが、[[勤労者音楽協議会]]との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的な[[プロテストソング]]に行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより[[1969年]]9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した<ref name="サンデー毎日19821" />。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」<ref name="サンデー毎日19821" />。
 
[[1970年]]4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した<ref name="サンデー毎日19821" />。この時期から[[ボブ・ディラン]]に影響を受けたロックを、当時無名だった[[はっぴいえんど]]をバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、[[一夫一婦制]][[ナンセンス]]を唱えて自由な[[ヒッピー]]風生活をするが行き詰る<ref name="サンデー毎日19821" />。