「佐々倉桐太郎」の版間の差分

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[[安政]]2年([[1855年]])、[[長崎海軍伝習所]]第一期生に選ばれ、[[航海術]]・[[測量]]を修めた。江戸に帰朝後、[[軍艦操練所]]教授方となる。[[万延]]元年([[1860年]])、[[咸臨丸]]運用方兼砲術方として渡米。
 
[[サンフランシスコ]]入港時、見習士官であった[[赤松則良|赤松大三郎]]とともに日本人初の[[祝砲]]を撃っている。
 
[[1871年]]([[明治]]4年)[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に出仕、[[1873年]](明治6年)には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。
 
== 人物 ==
[[咸臨丸]]が、[[サンフランシスコ]]に入港した際、米海軍から21発の礼砲をうけた。この際、日本側から答砲の話がでたが、これに対して[[勝海舟]]は失敗したら恥になるからと、強硬に反対した。これに対して佐々倉は失敗はしない。答砲すべきだと反論した。それに対し勝は「成功したら俺の首をやる」と言い不快感をあらわした。
 
その結果、無事答砲は成功し、佐々倉は「今[[勝海舟|勝麟]]の首を貰っても良いが、艦長も首が無いと不便だろうから、日本に着くまで預けておこう」と言い乗組員を笑わせたと言う。([[福沢諭吉]]、『[[福翁自伝]]』による)
 
== 栄典 ==
* [[1873年]](明治6年)[[7月5日]] – [[正六位]]<ref>{{アジア歴史資料センター|C09111304900|甲1套1番大日記  式部寮達  佐々倉桐太郎叙位の件}}</ref>
 
== 登場作品 ==
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目出典 ==
* [[咸臨丸]]
* [[中島三郎助]]
 
==出典==
{{Reflist}}
 
{{デフォルトソート:ささくら とうたろう}}
[[Category:幕末の旗本]]
[[Category:浦賀奉行所役人]]
[[Category:万延元年遣米使節の人物]]
[[Category:幕府海軍の人物]]