「ハビエル・ペレス・デ・クエヤル」の版間の差分

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|successor2 = [[:en:Roberto Dañino Zapata]]
|birth_date = {{birth date and age|1920|01|19}}
|birth_place = {{PER}}[[リマ]]
|death_date =
|death_place =
|出身校 = [[ペルー・カトリカ大学]]
|nationality = [[ペルー人]]
|spouse = マルセラ・テンプル・セミナリオ
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}}
 
'''ハビエル・フェリペ・リカルド・ペレス・デ・クエヤル・デ・ラ・ゲーラ'''<ref>父方の[[姓]]は「'''ペレス・デ・クエヤル'''」であるが、日本では報道等においても「デクエヤル」という誤った表記をされてしまうことが多い。</ref>({{Lang-es|Javier Felipe Ricardo Pérez de Cuéllar de la Guerra}}, [[1920年]][[1月19日]] - )は、[[ペルー]]の[[政治家]]、[[外交官]]。第5代[[国際連合事務総長]](任期:[[1982年]]1月 - [[1991年]]12月)。第28代ペルー首相(任期:[[2000年]][[11月]] - [[2001年]][[7月]]、首相兼外務大臣)。[[アメリカ大陸]]出身では初の国連事務総長。
 
== 人物・来歴 ==
1920年、[[ペルー|ペルー共和国]]・[[リマ]]生まれ。1940年、ペルー外務省に入省。1944年に大使館勤務となり、書記官としてフランス、[[イギリス]]、[[ボリビア]]と[[ブラジル]]のペルー大使館で勤務する。その後、[[スイス]]、[[ソビエト連邦]]、[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]と[[ベネズエラ]]のペルー大使を務める。1946年の国連初総会にはペルー代表団の一員として参加している。1971年に国連大使となり、1975年まで同職。1973年と1974年に安全保障理事会で議長を務めており、1974年7月に[[キプロス]]で発生した騒乱時([[キプロス]]の項目参照)、議長職であった。1975年9月18日に、キプロス問題における特別代表に任命され、1977年12月まで同職を務める。1979年2月27日に、国連事務次長として任命される。1981年4月、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン問題]]における[[国際連合事務総長特別代表]]に任命され、同年4月と8月に[[パキスタン]]と[[アフガニスタン民主共和国|アフガニスタン]]を訪問した。
 
1981年12月31日、[[クルト・ヴァルトハイム]]の後任として国連事務総長となる。任期中、[[フォークランド紛争]](マルビナス紛争)の影響で悪化したイギリスと[[アルゼンチン]]との和解や[[中央アメリカ]]の平和と安定のために尽力し、また[[ナミビア]]の独立交渉、[[西サハラ]]での[[モロッコ]]と[[ポリサリオ戦線]]([[サハラ・アラブ民主共和国]])との紛争やキプロス問題についても取り組んだ。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈・出典 ===
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[[Category:1920年生]]
[[Category:存命人物]]
 
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