「オーストリア学派」の版間の差分

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カール・メンガーは[[1871年]]に『国民経済学原理』を刊行、翌[[1872年]]、それによりメンガーは[[ウィーン大学]]の私講師となり、[[1879年]]に経済学の正教授に就任した。『国民経済学原理』においてメンガーは、効用の意義を強調するだけでなく、完全な市場を分析の対象としたワルラスとは異なり、不完全な市場に関心をもち、したがって価格だけでなく商品の売れやすさ、つまり販売力を問題とし、販売力最大の商品として貨幣を考察した。また、『国民経済学原理』を無視し経済理論の研究を軽視していた新歴史学派が当時のドイツにおいて支配的であったので、メンガーは理論的研究の重要性を主張するために[[1883年]]に『[[社会科学、とくに経済学の方法に関する研究]]』を公刊し、[[グスタフ・フォン・シュモラー]]と有名な方法論争をおこなった。
 
カール・メンガーの主要な後継者の一人である[[オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク]]は、[[1895年]]以降、3度[[大蔵大臣]]を務めたが、[[1904年]]にウィーン大学の教授となった。彼は大著『[[資本および資本利子]]』の第1巻「資本利子論の歴史と批判」において[[労働価値説]]にもとづく[[搾取利子説]]をはじめ多くの学説を論破し、第2巻「資本の積極理論」において有名な利子の3原因を説いた。この[[オーストリア資本理論]]は、のちにスウェーデンの経済学者[[クヌート・ヴィクセル]]により、ワルラスの一般均衡理論に導入される。また、メンガーのもう一人の主要な後継者[[フリードリヒ・フォン・ヴィーザー]]は、[[1889年]]に『[[自然価値論]]』を刊行、[[1903年]]にメンガーの後を継いでウィーン大学教授に就任し、[[1914年]]には『[[社会経済の理論]]』を公刊した。ヴィーザーは帰属価格の厚生経済学的意味を明らかにし、先駆的な社会主義経済理論を展開した。さらに、企業者による革新を強調して『[[経済発展の理論]]』を説いた[[ヨーゼフ・シュンペーター]]もオーストリア学派の出身であり、またオーストリア資本理論を基礎にした景気変動論や自由主義論で名高い[[フリードリヒ・ハイエク]]は、20世紀後半のオーストリア学派の代表的な存在であるといえよう。ハイエクやその師の[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]の流れを汲む学者は「'''新オーストリア学派'''(ネオオーストリアン)」と呼ばれるが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を避けて多くの学者が亡命したことにより、オーストリアではなくアメリカが中心地となっている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%AD%A6%E6%B4%BE-40384 オーストリア学派] コトバンク 2018年8月21日閲覧。</ref>
 
== オーストリア学派の人物 ==
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*[[手塚寿郎]]
 
== 引用文献脚注 ==
{{Reflist}}