「間人皇女」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
彩世 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
 
== 生涯 ==
[[乙巳の変]]([[645年]]6月)により皇極天皇が[[譲位]]し、軽皇子([[孝徳天皇]])が即位する。葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を[[皇太子]]とし、[[大化]]の年号が採用された。大化元年([[645年]])末に、[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]から[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]に遷都する。葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。[[白雉]]4年([[653年]])に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の[[京都府]][[乙訓郡]])に宮殿を造営中に病に倒れ、[https://ja.wikipedia.org 鸕野讚良皇女]に遺言を残そうとしたが、白雉5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[654年]])に難波の宮殿で崩御した。
 
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『[[日本書紀]]』に残されている。
 
: 金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
:: 繫於金木 吾飼駒當無出兮 吾之駒至今何以為所獲皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との[[近親相姦]]の関係を説く[[吉永登]]のような見解もあり<ref>吉永登「間人皇女」7-10頁。</ref>、[[直木孝次郎]]らによって支持されているが、これに対しては[[曾倉岑]]・[[荒井秀規]]らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。 また、孝徳天皇が崩御したあと、間人皇女が一時的に天皇の役割を背負ったという説もある。『万葉集』に「[[中皇命]](「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説が[[荷田春満]]以来あり、[[土屋文明]]などによって広く支持されている。さらに「中皇命」の号をもって、母・斉明の崩後に葛城皇子が即位する環境が整うまでの中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説が[[押部佳周]]・[[小林敏男 (歴史学者)|小林敏男]]らによって展開されているが、『万葉集』の註には斉明天皇作との旨が記されているなどの異伝も見られ、必ずしも確証があるわけではない。斉明天皇を中皇命とする説も[[澤瀉久孝|沢潟久孝]]をはじめすくなくない。なお、中皇命については中大兄そのひとを指すのではないかとする[[東野治之]]や[[大平聡]]らの説も近年提出されている。
『万葉集』に「[[中皇命]](「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説が[[荷田春満]]以来あり、[[土屋文明]]などによって広く支持されている。さらに「中皇命」の号をもって、母・斉明の崩後に葛城皇子が即位する環境が整うまでの中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説が[[押部佳周]]・[[小林敏男 (歴史学者)|小林敏男]]らによって展開されているが、『万葉集』の註には斉明天皇作との旨が記されているなどの異伝も見られ、必ずしも確証があるわけではない。斉明天皇を中皇命とする説も[[澤瀉久孝|沢潟久孝]]をはじめすくなくない。なお、中皇命については中大兄そのひとを指すのではないかとする[[東野治之]]や[[大平聡]]らの説も近年提出されている。
 
天智天皇4年2月25日(665年3月16日)に薨去し、斉明天皇陵である[[皇極天皇#陵墓|越智岡上陵]]に合葬された。