「オーストリア=ハンガリー帝国」の版間の差分

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オーストリア側は、[[7月24日]]期限付きの[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと[[三国協商]]関係にあった[[イギリス]]・[[フランス]]も相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ[[第一次世界大戦]]が勃発した。
 
開戦当初、どこの国も3ヶ月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の無さを露呈した。多民族国家ゆえに軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援に依存する状況に陥った。
 
[[1916年]]には、68年間帝国に君臨してきた皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が死去し、国内に動揺が走った。さらに[[1917年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が協商側で参戦し、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]](協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「[[民主主義]]と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアで[[10月革命 (1917年)|ボリシェビキ革命]]が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で、帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。