「亀山天皇」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[正嘉]]2年([[1258年]])8月、惨烈を極めた[[正嘉の飢饉]]の最中、10歳で[[立太子]]、翌[[正元 (日本)|正元]]元年([[1259年]])兄の[[後深草天皇]]の譲りを受けて[[践祚]]。即位には父の[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]や、母后の大宮院の意向があったとされる。
 
[[文永]]2年([[1265年]])には、[[元 (王朝)|元]]の[[クビライ]]からの国書が[[高麗]]を介して伝えられ、[[鎌倉]]から送達される。[[鎌倉幕府|幕府]]は元に備えると共に、朝廷は[[神社]]に異国降伏の祈願を行う。[[院政]]中には2回の元の対日侵攻([[元寇]])が起こり、自ら[[伊勢神宮]]と[[熊野三山]]<ref>『熊野大神 蘇りの聖地と神々のちから』加藤隆久 p.122</ref>で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の[[治天]]であった亀山上皇か、天皇位にあった[[後宇多天皇]]の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉ったことは史実だが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、[[大正]]年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。文永11年([[1274年]])、[[蒙古]]襲来により炎上した[[筥崎宮]]社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、[[文禄]]年間、[[筑前国]]領主[[小早川隆景]]が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。