「亀山天皇」の版間の差分

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だが、亀山上皇は[[関東申次]]の[[西園寺実兼]]との不和に加えて、[[霜月騒動]]で失脚した[[安達泰盛]]と親しかった事が幕府を刺激する。このため弘安10年([[1287年]])10月には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる。さらに、鎌倉では[[鎌倉将軍]]の[[惟康親王]]が廃されて後深草上皇皇子の[[久明親王]]が将軍になり、持明院統に有利な情勢が続いた。
 
[[正応]]2年([[1289年]])9月、亀山上皇は[[南禅寺]]で出家して、[[法皇]]となる。法名は金剛源。[[禅宗]]に帰依し、亀山法皇の出家で[[公家]]の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている。また、[[笛]]・[[琵琶]]・[[催楽馬]]・[[神楽]]・[[朗詠]]など様々な芸能に通じ、持明院統の[[後伏見上皇]](大甥にあたる)の願いを受けて、[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])には[[蹴鞠]]を、翌年には朗詠を伝授している<ref>豊永聡美「大覚寺統の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P76-97</ref>。
 
正応3年([[1290年]])、宮中に[[甲斐源氏]]の[[浅原為頼]]父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件([[浅原事件]])が起きた。この事件は初め[[北条氏]]による霜月騒動に連座し、所領を没収されたことによる浅原の反抗かと思われたが、大覚寺統系の前[[参議]][[三条実盛]]の関与が疑われ、それを受けて伏見天皇と[[関東申次]][[西園寺公衡]]は亀山法皇が背後にいると主張した。しかし後深草法皇はその主張を退けた。また亀山法皇も幕府に事件には関与していない旨の[[起請文]]を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。