「斎藤三郎 (文学・野球研究者)」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[1895年]]([[明治]]28年)[[8月26日]]に[[長野県]][[下高井郡]][[市川村 (長野県)|市川村]](現[[野沢温泉村]])にて出生した<ref name="日外アソシエーツ">[[#日外アソシエーツ(2004)|日外アソシエーツ(2004)]] p.1093</ref>。小学生ですでに[[野球]]をプレーしていた<ref name="君島188">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.188</ref>。[[高等小学校]]を卒業した後、1913年(大正2年)に[[東京市|東京]]に移り住む<ref name="昆">[[#昆(1978)|昆(1978)]] p.71</ref>。[[早稲田]]の[[寿司屋|すし屋]]で働きながら地元の草野球チームの[[投手]]をやっていた<ref name="東田24">[[#東田(1989)|東田(1989)]] p.24</ref><ref name="長山210">[[#長山(1997)|長山(1997)]] p.210</ref>。
 
[[高等小学校]]を卒業した後、1913年(大正2年)に[[東京市|東京]]に移り住む<ref name="昆">[[#昆(1978)|昆(1978)]] p.71</ref>。[[早稲田]]の[[寿司屋|すし屋]]で働きながら地元の草野球チームの[[投手]]をやっていた<ref name="東田24">[[#東田(1989)|東田(1989)]] p.24</ref><ref name="長山210">[[#長山(1997)|長山(1997)]] p.210</ref>。
 
1923年(大正12年)に[[澤田正二郎|沢田正二郎]]に[[スカウト (勧誘)|スカウト]]されて「[[新国劇]]」に入団する<ref name="日外アソシエーツ" />。野球のない日は大道具係を務めていた<ref name="東田24" />。1929年([[昭和]]4年)まで文芸部に在籍して野球チームの選手としてプレーしている<ref name="日外アソシエーツ" />。新国劇の野球部では主将兼投手で、[[捕手]]の[[サトウハチロー]]と[[バッテリー]]を組んでいた<ref>[[#サトウ(1949)|サトウ(1949)]] p.108</ref>。新国劇時代に唯一書いた[[脚本]]である『早慶戦時代』は舞台上映されてヒットし、映画化もされている<ref name="長山210" />。それは[[早慶戦]]のトラブルを描いた野球劇だった<ref name="2006年横田20">[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.20</ref>。その考証の確かさは舞台や映画を見たモデルになった当人や家族さえも驚かせたという<ref name="長山210" /><ref name="横田72">[[#横田(1993)|横田(1993)]] p.72</ref>。1929年に新国劇を辞めて[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]の野球チーム「ナイン・スターズ」の指導をするようになった<ref name="長山210" />。
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1930年(昭和5年)ごろから[[石川啄木]]と[[野球の歴史|野球史]]の研究を志す<ref name="日外アソシエーツ" />。ある日、ふとしたことから書簡集を手にしたのが啄木の研究に没頭していくきっかけとなった<ref name="長山210" />。啄木関連の文献資料を収集して、1942年(昭和17年)に『文献石川啄木』二巻を刊行した<ref name="日外アソシエーツ" /><ref name="昆" />。[[太平洋戦争|戦後]]は[[岩波書店]]版『啄木全集』の[[編集]]・[[校正|校訂]]を行ったほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書がある<ref name="昆" />。
 
野球文献を集めるために古本屋を開き、その集めた結果で1939年(昭和14年)に『日本野球文献解題』を50部限定で印刷した<ref>[[#木村(1962)|木村(1962)]] p.10</ref>。収集した野球書の中の明治・大正期における単行本の一切に見聞をくわえ、それに簡単な[[注釈]]を施した非売品である<ref>[[#野口(1953)|野口(1953)]] p.220</ref>。日本への野球の伝来の年について現在の定説「明治5年説」を最初に提唱したのも斎藤である<ref name="弘田145">[[#弘田(1999)|弘田(1999)]] p.145</ref>。[[ホーレス・ウィルソン]]がこの年に生徒に野球を教えたとしている<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.22</ref>。まず、1939年に『[[読売新聞]]』の連載記事で初めて発表し、1943年(昭和18年)にも『[[野球界|野球と相撲]]』でも5年説を展開する<ref name="弘田145" />。さらに、1952年(昭和27年)3月号から開始した『読売スポーツ』誌の連載「野球文献史話」の中でも、明治5年説の実証と従来の「明治6年説」の誤りを論証した<ref name="弘田145" /><ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.187</ref>。しかし、斎藤の明治5年説が評価されるようになるのは、彼が亡くなってから12年後、[[君島一郎 (野球研究者)|君島一郎]]の『日本野球創成期』(1972年)が出版されてからである<ref name="弘田145" />。
 
総合雑誌『経済往来』の編集も担当し、映画史研究など野球史・文学史以外の分野でも業績を残している<ref>[[#弘田(1999)|弘田(1999)]] p.144</ref>。[[川並秀雄]]は「斎藤君は、せまい一室を借りて、うずたかく積み上げた書物にとりかこまれて、小さな机で謄写版の原紙を切って古書目録をつくり、[[通信販売]]をやりながら細々と一人暮しをして、野球の資料と明治文学関係のものを集めていた」と回想している<ref>[[#川並(1992)|川並(1992)]] p.115</ref>。1952年に[[君島一郎 (野球研究者)|君島一郎]]と初めて対面した時点でも、独身ひとり暮らしをしており、[[正岡子規]]の『子規編集』の編さんに従事していた<ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] pp.187-188</ref>。
 
野球資料室の構想を抱いていた斎藤の夢は[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]として実現する<ref name="弘田145" />。1959年(昭和34年)から野球体育博物館の[[嘱託社員|嘱託]]として働いていたが<ref name="日外アソシエーツ" />、間もなく急死する<ref name="君島189">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.189</ref>。[[1960年]](昭和35年)[[2月2日]]に死去。{{没年齢|1895|8|26|1960|2|2}}<ref name="日外アソシエーツ" />。
 
== 功績 ==
斎藤は野球史研究の先駆者として、それまでのあいまいな言い伝えではなく、書き残された資料によって、日本人が国内で初めて野球をプレーした時期を証明した<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。書物だけでは実感できないと明治時代の野球選手に体験談を聞いたり、戦時中さえ研究旅行を繰り返している<ref name="弘田145" />。野球への感謝と恩返しの気持ちから野球史を志したと語っている<ref name="弘田145" />。同じく野球研究者の弘田正典は長年の研究の結果、2000年([[平成]]12年)に明治5年伝来説は正確であると断言している<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.17,20</ref>。

『日本野球創成期』の君島一郎は1952年に斎藤と初めて対面し、集めてある資料が豊富なことと、野球に対する愛好と情熱が高いことに感心したことを述べており<ref name="長山210" /><ref name="横田72" />、本の最後に「今後もしも日本野球の故事探求の志を有する方々があったら、是非にも彼斎藤三郎の二つの作(野球殿堂博物館に所蔵されている「野球文献史話」と『日本野球文献解題』)を一読されんことをお勧めする」と結んでいる<ref name="君島189" />。また、[[横田順彌|横田順弥]]も「啄木と野球史に関しては、以後も斎藤以上の研究家の出現を見ていないといって過言ではない」と述べている<ref>[[#横田(1993)|横田(1993)]] p.73</ref>。
 
野球殿堂博物館に所蔵されている明治・大正・昭和前期の資料の大半は彼の蔵書といわれているが<ref name="2006年横田20" />、彼自身の黎明期日本の野球の著作に関しては、研究をまとめた薄冊のメモ書き程度のものを2冊、非売品として残しているだけである<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。なお、あとの半分は[[早稲田大学]]の名投手で[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りもしている、[[宝塚運動協会|日本最初のプロ野球チーム]]の創設者である[[河野安通志]]の蔵書といわれる<ref name="2006年横田20" />。