「濡須口の戦い」の版間の差分

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215年、合肥の征伐に従い、曹操軍の張遼が津北で孫権を襲った時、蒋欽は奮戦し孫権を守りきった、この功で濡須督を任命した。
 
216年10月、合肥の勝利に乗じて、曹操は自ら大軍を率いて孫権征討に赴き、曹操はしばしば濡須に出征し、孫皎は毎々に赴いて拒敵ぎ、周泰も再び赴撃する。この進軍は曹操の総力戦という規模であり、赤壁以降留守司令官となっていた[[夏侯惇]]以下、主だった武将の多くが参加し、青州兵司令の[[臧覇]]、合肥守将の[[張遼]]らも攻撃に参加した。11月、曹操軍は譙に到着した。冬、曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。鄱陽の民の[[尤突]]、丹陽の賊将の[[費桟]]が曹操から共に印綬を与えられ、民を化して賊と為し、丹陽郡で孫権に対し反乱を起こした。山越数万人以上も曹操に呼応して挙兵したが、陵陽・始安・涇もそれに同調すると、孫権は[[賀斉]]と[[陸遜]]に命じて共に討伐し数千人を斬って反乱を鎮圧した。これにより丹陽の三県も降参した。また、尤突配下の山越降伏者の中から8千人の精鋭を得た、費桟の中から数万人の精兵を得た、孫権軍に加えた。
 
217年正月、曹操軍が居巣に陣取り、曹操が孫権を攻めんとて、居巣に於いて築城た。孫権は濡須を保ち、孫皎は毎々に赴いて拒敵ぎ周泰も再び赴撃する。疫病が大流行し、そこで疫病による風邪が蔓延し、司馬朗を含めて多くの曹操軍の兵士が風邪をこじらせた、[[司馬朗]]が疾に遇って病死した。
 
2月、曹操軍が濡須を進攻して長江の西の郝谿に駐軍した。孫権を攻めた時に城を築く。朱然は濡須塢および三関屯で備え、濡須塢を守るために孫権が前線で新しい城を築く<ref>『資治通鑑·胡三省注』:孫権が保った所というのは<者>,十七年に築いた所である濡須塢のことだろう也(孫權所保者,十七年所築濡須塢也)。</ref>、臧覇·張遼らを先鋒部隊として城を築き終える前に、孫権の築城部隊を無理に攻撃した、孫権が退走。曹操は大軍を率いて横江に一度進撃した、徐盛は諸将と赴討した。徐盛の蒙衝(突撃船)も強風によって流され、船は曹操軍の岸下に落ちた。諸将は恐懼して出ようとする者はいなかったが、徐盛は一人で兵を率い、上陸して敵軍に突撃した、敵が気絶して多くの殺傷を受け退走した。このため、徐盛達は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。
 
孫権は[[呂蒙]]·[[蒋欽]]を共に諸軍の総指揮に任命し、呂蒙は以前に立てた濡須塢に拠らせ、強力な弩万張を配備させて曹操を拒がせた、曹操軍の先鋒部隊らが布陣に成功しなかったので、呂蒙は先鋒部隊ら(臧覇·張遼など)を攻撃し撃ち破った、曹操軍が引き退すしかない。臧覇配下の孫観が流れ矢に中って左足を負傷したが、矢傷は甚だ重く、まもなく死去した。
 
3月、孫権は曹操の侵攻を食い止め、行きて連日の豪雨に遇い、孫権軍が先に来ており、川の水が膨張して孫権軍の船は漸進し、曹操軍は皆な不安となった。張遼は退却を考えたが、臧覇は止めて、曹操は孫権軍を攻め敗れずに情勢が不利になると<ref>『讀史方輿紀要·卷二十六』:軍本巢縣之無為鎮,曹操攻吳,筑城於此,無功而還,因號無為。<br>『通典卷·一百八十一·州郡十一』:建安十七年,築濡須塢,呂蒙、周泰皆為守將。二十一年,曹公自來攻圍。吳黃武二年,魏軍又攻,不拔。<br>『後出師表』:曹操五攻昌霸(昌豨)不下,四越巢湖不成</ref>、次日に果たして撤退の命令があった、大軍を率いて撤退した。孫権は防備はきわめて厳重になり、曹操は陥落させることができず大軍を率いて撤退し、侵攻から5か月余りで成果もなく無為に引き揚げた<ref>『三国志·魏志·臧覇伝』、『三国志·呉志·呂蒙伝』、『資治通鑑』</ref>。曹操が孫権を攻めんとして、功が無かったため而して退いたのである、この地には「無為」という地名が付いた<ref>『讀史方輿紀要·卷二十六』:軍本巢縣之無為鎮,曹操攻吳,筑城於此,無功而還,因號無為</ref>。曹操が撤退くと留守って周泰が濡須を督し、徐盛・朱然らを濡須に残した。戦い後、孫権は徐祥を派遣して漢王朝に形式的に臣従を申し出ると、曹操に対し偽りの降伏を仕掛け、揚州境地で山越反乱のことに専念しており<ref>
『三國志.陸遜傳』:方今英雄棋峙,豺狼窺望,克敵寧亂。非眾不濟。而山寇舊惡,依阻深地。夫腹心未平,難以圖遠,可大部伍,取其精銳。<br>『三國志·吳志·賀全呂周鍾離傳』:山越好為叛亂,難安易動。<br>『三國志·吳志·吳主傳』:時揚越蠻夷多未平集,內難未弭,故權卑辭上書,求自改勵。</ref>、謀略によって一時休戦する<ref>『資治通鑑補』:有甘寧斫營之事,以破操之膽,隨即使人請降以狃之,此兵機也,故操亦即受其降而不與敵。《資治通鑑》原文置權請降於班師之後,夫操既班師,權何畏於操而請降哉?<br>『建康実録』:二十二年春,權令都尉徐祥詣曹操詐降,將謀息兵,操信之,使修好結婚。</ref>。曹操はこれを信じ、修好して結婚することにした。夏侯惇を総指揮として戦地にいる兵と方面軍二十六軍を任せ、曹仁・張遼らを居巣に残した。この両者の和睦関係は[[夷陵の戦い]]で呉が蜀を大破させるまで続くこととなる。