「近鉄大阪線列車衝突事故」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
26行目:
 
== 概要 ==
[[1971年]][[10月25日]]15時37分頃、[[近鉄大阪線]]の[[西青山駅]] - [[東青山駅]](両駅は現在とは別の場所にあった)間の[[新青山トンネル|青山トンネル]](現在は新青山トンネルが開通し、青山トンネルは廃止)東口手前200mの同トンネル内で、[[大阪上本町駅|上本町]]<!--当時は上本町が正式駅名-->発[[近鉄名古屋駅|近鉄名古屋]]行き特急電車([[近鉄12000系電車|12200系12202F]]・[[近鉄12000系電車|12000系12001F]]の4両編成<ref name="決定版">[[ジェー・アール・アール]]発行の「決定版 近鉄特急」([[1985年]]発行)記事内の記述</ref>)114列車(主要駅停車の通称「乙特急」)が、[[自動列車停止装置]] (ATS) 故障のため誤停止した。運転士はATS解除操作を行ったが[[ブレーキ]]が解除できず、停止地点は下り33‰の急勾配であったため、運転士は止むを得ず車輪に[[手歯止め]](ハンドスコッチ)を挟み、各車輌の供給コック(ブレーキ装置からブレーキシリンダーにエアを供給するコック)をカットしておいて、ブレーキシリンダーのエアを全部抜くという非常措置(制動不緩解故障の際の基本手順通り)を行った。
 
ところが、しかし列車停止を聞いて東青山駅から駆けつけた[[助役 (鉄道)|助役]]が、運転士との何らかのやりとりの後に手歯止めを外してしまい、運転士は供給コックのカット解除を怠って運転室に戻ってブレーキを解除した。その結果114列車は走り出し、また供給コックがカットされているのでたことからエアの再充填も出来ず、ブレーキが効かない状態で連続33‰の下り坂を暴走し始める。この時、当該114列の乗客は乗務員から後部車両へ避難するよう指示されていことから乗務員では手が下せない状態になっていたみられ証言している。
 
東青山駅を通過し、15時58分頃、114列車は[[東青山駅|東青山]] - [[榊原温泉口駅|榊原温泉口]]間にあった垣内(かいと)東信号場の[[安全側線]]を、推定速度120km/h以上で突破し脱線転覆、左カーブであったため本線の切り通しへ転落した。3両目以降は[[総谷トンネル]]入口付近の壁に激突して止まったが、先頭の2両が横転した状態でトンネル内へ突入し、直後に対向してきた[[賢島駅|賢島]]発[[京都駅|京都]]・[[大阪難波駅|近鉄難波]]<!--当時は近鉄難波が正式駅名-->行き特急電車([[近鉄12000系電車|12200系12226F]]・[[近鉄10100系電車|10100系C編成10118F]]・[[近鉄18200系電車|18200系18205F]]の7両編成<ref name="決定版" />)1400N(1400K)列車と正面衝突した。
 
これにより死者25名(1400N(1400K)列車の運転士・車掌と東青山駅助役の計3名および乗客22名)、重軽傷者227名<ref>[[ジェー・アール・アール]]発行の「決定版 近鉄特急の記事内の記述では、死者は同じく25人であるが、重軽傷者は288名との記述もあされている。</ref>を出す大惨事となった。
 
対処した助役や乗務員が死亡したため、助役や運転士・車掌から[[事情聴取]]あるいは[[逮捕]]しての取り調べをすることができず、供給コックをカットしたまま運転士が運転室に戻った理由や、手歯止めを外すに当たって運転士と助役の連絡状況などは解明できなかった。
 
なお、京都・難波行き列車は先頭5両が難波行き編成であったが、折しも京都で行われることになっていた医療関係者の学会のため、複数の医師が後部の京都行き編成(18200系2両のみ京都行き)に乗車しており、その医師等により一部の乗客に対して応急治療が行われた。

事故直後の模様は、事故現場に唯一直接辿り着くことのできた報道機関であった[[日本放送協会|NHK]]の[[テレビ]]取材[[クルー]]によって、NHKのニュース番組を通して全国に伝えら報道された。
 
== 影響 ==