「細川氏綱」の版間の差分

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しかし天文15年([[1546年]])に晴元の家臣[[三好長慶]]を堺に赴いた隙に遊佐長教・[[筒井順昭]]らと共に堺を囲み長慶を越水城に撤退させ、その間に細川国慶が京を制圧し晴元らを[[丹波国|丹波]]に敗走させる。更に12代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義晴]]の支持を獲得するまで晴元を追い詰めたものの、翌天文16年([[1547年]])に[[舎利寺の戦い]]などで晴元方の反撃を受け、京を占拠していた国慶も戦死したため失敗に終わる。
 
ところが、[[三好政長]](宗三)の処遇を巡って主君と仲違いした晴元軍の中核・長慶の氏綱側への転属が決め手となり、天文18年([[1549年]])に長慶が政長を[[江口の戦い]]で討ち取り、晴元が戦場を離れ京を放棄、遂に晴元を[[近江国|近江]]へと追放することに成功した。天文21年([[1552年]])には長慶と共に上洛し、[[京職|右京大夫]]に任じられ、細川京兆家の家督となる。永禄6年12月20日(1564年1月4日)に[[山城国|山城]][[淀古城|淀城]]で没。享年51
 
一般的に長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かったと認識される氏綱だが、近年の研究では上洛当初は[[東寺]]などの寺社が長慶のみならず氏綱からの書状を求めていたことや、[[内藤国貞]]の戦死後の[[松永長頼]]の家督譲渡の承認など丹波支配において複数の書状を出していること、[[永禄]]段階までは長慶は形式上とはいえ儀礼の場で氏綱を主君として立てていること、従来は長慶の被官として京支配に関わったと思われていた[[今村慶満]]・[[小泉秀清]]らは細川国慶に抜擢された被官であり、国慶の死後は主君である氏綱の被官にスライドしたと思われることなど、少なくとも天文年間においては畿内においてある程度の影響力を持っていたと思われ、「傀儡」という言葉で一括りにしてしまうことに疑問が呈されている。