「ウスリー川」の版間の差分

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古代以来、ウスリー川の両岸にわたり、[[ツングース]]系の[[しゅくしん|粛慎]]・[[挹婁]]・[[勿吉]]・[[靺鞨]]や[[女真]]といった民族が活動しており、中国・朝鮮との間で交易をするほか戦争も起こしていた。
 
6世紀から9世紀にかけての[[唐]]の時期、[[勿吉]]は[[靺鞨]]と改称し、南の[[粟末靺鞨]]と北の[[黒水靺鞨]]にわかれ、粟末靺鞨は[[渤海 (国)|渤海]]を建国してウスリー川上流を領土に納め、黒水靺鞨はウスリー川の東岸や下流で活動した。黒水靺鞨は後に[[女真]]となり、彼らの地であるウスリー川岸を監督するため、[[元 (王朝)|元]]代には水達達路と阿速骨児千戸府が建設された。[[明]]代には現在の虎林市虎頭鎮の対岸の現ロシア側に亦麻河衛を、虎林市虎林鎮の付近に失里綿衛を、[[饒河県]]の付近に失児兀赤衛を、饒河県大楞半島より東に失木魯河衛を、[[撫遠市]]の対岸の現ロシア側に阿倫衛、伏里其衛、喜申衛などを置き女真を監督した。[[清]]代初期には[[寧古塔|ニングタ]]副都統轄区となり、[[雍正帝]]の時代には[[依蘭県|依蘭三姓]]副都統管領となった。
 
中国人や満州人はこの川を往来し、流域の諸民族やアムール河口の対岸に住む[[アイヌ人]]などから貢納される毛皮と中国産品とを交換する取引を行っていた。また、清の末期になると、流域に中国人農民や[[朝鮮王朝]]から逃れる朝鮮人農民らが入植をはじめた。[[1860年]]の中露[[北京条約]]締結により、ウスリー川の東([[外満州]])はロシア領となり、東岸はすべて[[ロシア帝国]]のプリモルスキー州(いわゆる[[沿海州]]、プリモルスキーとは沿岸部の意味)となった。沿岸には[[ウスリー・コサック]]が置かれた。