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こうして、佐立、吉井以降も特に[[内田四郎]]、[[渡辺仁]]らが加わってからは、逓信建築は彼らが切り開いた[[大正期]]の[[モダニズム]]の時代にふさわしい建築へと発展した。その後も[[三橋三郎]]が1889年に、[[大島三郎]]が1917年に、岩元禄と[[森泰治]]が1918年に、[[吉田鉄郎]]が1919年に、山田守と[[中山広吉]]が1920年が入省してくる。そこは官庁営繕というより自由な建築デザインの揺籃がみられ、特に1910年代は黄金時代の始まりとみられている<ref>[[内田祥三]]もまた当時、その自由な空気と、設計能力の高いスタッフが集まっていたことを証言しており、後に子息[[内田祥哉]]が後進の電電公社に入社している。(インタヴュー 吉田鐵郎の平凡、官庁営繕の公共性 (特集 平凡建築) 内田 祥哉 , 長島 明夫 建築と日常 (5), 6-20, 2018)</ref>。
予算については、{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/80/709/80_689/_pdf/-char/ja 郵政建築における建築生産システムの変容に関する一考察]}}(齋藤 隆司, 古阪 秀三, 平野 吉信 日本建築学会計画系論文集 2015年 80 巻 709 号 689-696)を参照。
== 脚注 ==
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