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→‎現象と現実: 「経験された」ー>「認識された」としました。”現象”には「現象そのもの(主体の外)」を指す場合と、「認識された現象(主体の中)」の場合があります。主体の外にある事象を、主体の中に取り込むことは、「経験」よりも「認識」や「認知」という表現の方がふさわしいと思います。
 
== 現象と現実 ==
個々の主体によって主観的に経験認識され[[現象]]は、[[幻想]]や錯誤や虚構の可能性があるため、ある種の普遍性や必然性を持つ現実とはイコールではない。とはいえ、もしこのようなそれ自体は常識的な立場を推し進めれば、ある現象を現実として認めるための根拠として、主観的な経験が役に立たないということになってしまい、一定の困難が生じる(たとえば[[荘子]]の「胡蝶の夢」)。また、根を同じくする問題として、「同じ現実を人々が共有している」ことをいかにして保証するかが懐疑主義的な議論においては問題となる(その根拠付けとしてのたとえば[[イマヌエル・カント|カント]]の[[現象学#超越論的主観性|超越論的主観性]]や[[物自体]])。
 
そこで現象を現実として規定する主観としての[[理性]]や[[悟性]]、あるいは複数の人々の経験的現象の一致や、経験的現象それ自体の整合性や性質など、いくつかの基準が提案されてきた。とはいえ、この場合「同一の現実を共有している」とはどのような事態を意味するのか、ということにおいても、意見の一致が見られるわけではない。現実が主観的な経験によって定義されないとすれば、自己の経験している主観的な現実や、それについての言語的な報告の一致によっては、現実の共有を定義なり保障なりすることは難しいからである。
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