「日本テレビ動画」の版間の差分

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ルーツは「'''[[国映|国映株式会社]]'''」という[[教育映画]]や[[ピンク映画]]を製作していた[[制作プロダクション]]が、[[1965年]]頃に同社のテレビ製作部門だった[[国映#日本放送映画|日本放送映画]]の中に、日本テレビ専属のアニメ制作部門を立ち上げたことである<ref name="andop66">安藤、2008年、p.66 - 67</ref>。[[1966年]]には、このアニメ制作部門は日本放送映画の関連会社である有限会社'''日放映動画スタジオ'''として独立した<ref name="andop66"/>。中心人物は、[[東京ムービー]]出身の[[岡本光輝]]と[[新倉雅美]](別名・渡邊清)だった<ref name="andop66"/>。しかし、『[[冒険少年シャダー]]』で納品数が不足するトラブルを起こしたことがあり、それがきっかけで新たに新倉が'''東京テレビ動画'''を[[狛江市]]に立ち上げたという<ref name="andop66"/>。
 
東京テレビ動画は、引き続き日本テレビ製作のアニメを独占した<ref name="andop68">安藤、2008年、pp.68 - 69</ref>。当時東京テレビ動画は専属の[[アニメーター]]を置かず、外部のスタジオ等と契約して制作していたという<ref name="andop68"/>。フリーの演出家だった富野喜幸(現・[[富野由悠季]])は、当社制作の『[[夕やけ番長]]』で監督としてのデビューを果たしている<ref>安藤、2008年、pp.85 - 86</ref>。『[[赤き血のイレブン]]』の監督を務めた[[岡迫亘弘]]は、「新倉は金払いが悪いことで有名だったから、有名な人やベテランは寄りつかない。だからこそ、逆に新人が活躍できたんだろうね」と述べている<ref>安藤、2008年、p.87</ref>。
 
[[1971年]]には[[新潟市]]にもスタジオを開設するが、[[藤井賢祐|日本テレビと東京テレビ動画の間に金銭的な不祥事]]が起こり、東京テレビ動画は1971年春以降日本テレビから仕事を干されてしまう<ref name="andop69">安藤、2008年、pp.70 - 73</ref>。岡迫の証言によれば、日本テレビ側のプロデューサーである[[藤井賢祐]]が新倉の贈与の見返りに発注していたことが日本テレビに発覚したため、発注がなくなったという<ref name="andop69"/>。なお同時期に放送されていた『[[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]』や『[[タイガーマスク#アニメ|タイガーマスク]]』のアニメ企画が[[キー局]]の日本テレビでは採用されず、代わりに関西の[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]で採用された背景には、藤井が東京テレビ動画の企画を優先して局に通す一方、[[東京ムービー]]や[[東映アニメーション|東映動画]]など他社の企画を門前払い同然で却下していた為である<ref>[https://twitter.com/Tetsuya_Kuroki/status/924480450797568004 黒木鉄也のツイート] 2017年10月28日</ref>。
 
その後、代表取締役である新倉は[[映画配給|映画配給会社]]との契約未定のまま映画製作に乗り出し、[[谷岡ヤスジ]]原作の[[アニメーション映画|劇場用]][[アダルトアニメ]]『[[ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!]]』を[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]配給で社運を賭けて制作、上映するが、興行は大失敗に終わる<ref name="andop69"/>。
 
そして、新潟スタジオを拠点として[[1971年]][[11月]]に再々度立ち上げられた会社が'''日本テレビ動画'''である<ref name="andop69"/>。代表取締役の[[稲庭左武郎]]は[[新潟総合テレビ]]の役員で<ref name="andop56">安藤、2008年、p.56</ref>、また新倉自身も[[新潟県]]出身で[[田中角栄]]とつながりがあったという報道もあり<ref>安藤、2008年、p80</ref>、新潟の政財界と関係があったとされる。なお[[吉川惣司]]は、稲庭が「お金を出すだけ」の出資者であったと述べている<ref name="andop75">安藤、2008年、p.75 - 76。吉川は稲庭を「会長」、新倉を「社長兼プロデューサー」と呼んでいる。</ref>。