「比企能員」の版間の差分

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能員謀殺の知らせを受けた比企一族は、一幡の屋敷である小御所に立てこもって防戦したが、大軍に攻められ追いつめられると、屋敷に火を放ち一幡を囲んで自害した。一幡も焼死し、焼け跡から小袖の切れ端を乳母が確認したという。能員の嫡男・余一兵衛尉は女装して逃れようとしたが、道端で捕らえられ梟首された。残る親族達もことごとく殺害されたという。
 
京都側の記録である『[[愚管抄]]』によると、頼家は広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとはみな子の一幡に譲ろうとした。それでは一幡を擁する能員の世になる事を恐れた時政が、能員を呼び出して殺害し、頼家を広元の屋敷に移して一幡を殺そうと刺客を差し向けた。一幡は母が抱いてかろうじて逃げ出したが、残る一族はみな討たれた。その後、11月に一幡も[[北条義時]]の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。
 
比企能員の屋敷跡に建てられた[[鎌倉市]]の[[妙本寺]]に、比企一族の墓がある。