「星川清司」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
17行目:
[[東京市]][[下谷|下谷区]](現:[[東京都]][[台東区]])出身。[[山形高等学校 (旧制)|旧制山形高校]]中退。
 
子供の頃から[[浅草]]の映画館へ通い、映画に親しむ日々を送った。若い頃の星川は病気がちだったため、30歳を過ぎてから職を探すことになったが映画関係の職に就きたいと思ってはみても[[映画監督|監督]]をやるのは体力的に無理と判断し、脚本家を志すようになったという。
 
映画界にはまったくツテのなかった星川は、やがて自身の手による脚本を業界の著名人に手当たり次第に送りつけるようになった。結果、[[森岩雄]]に紹介された[[藤本真澄]]から[[東宝]]の仕事を依頼されるようになった。同じ時期に星川は[[小津安二郎]]に[[松竹]][[松竹大船撮影所|大船撮影所]]へ招かれている。この時、小津の人柄に惚れ込んだ星川は、生涯小津のことを師と慕い続けた。1956年に[[大映]][[角川大映撮影所|東京撮影所]]と、そしてその後間もなく[[日活]]とも契約を結ぶ。
 
1962年、[[大映京都撮影所]]と契約を結び、京都へ移る。星川の最初の仕事は[[子母澤寛]]の新作『新選組始末記』を原作として書いた同名の映画の脚本だった。この作品は当初、[[藤巻潤]]主演作として製作する予定だったが、星川の脚本が[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]の目にとまり、雷蔵主演で製作されることになった。監督を務めたのは[[三隅研次]]で、以降雷蔵・三隅・星川は度々トリオを組むことになる。後に星川は雷蔵と提携したことで大映京都撮影所では厚遇を受けることができたと回顧している。大映時代の代表的な作品には『[[眠狂四郎]]シリーズ』(第1作から7作までを担当)がある。
 
大映倒産後も星川はテレビドラマの脚本も手掛け、1970年に『わが父[[葛飾北斎|北斎]]』([[毎日放送]]制作)で[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]優秀賞と[[イタリア賞]]グランプリを受賞した。また小説では処女作の『小伝抄』が第102回(1989年下半期)[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞これは直木賞の最年長受賞記録(68歳2ヶ月)であった
 
以後も星川は小説家としても活動するようになり、晩年はもっぱら小説家としての活動に専念した。
 
== 生年について ==
生前、生年を[[1926年]]と公表してきた。これは、星川が「寅年生まれは運が強い」との理由からである<ref name="yomiuri20100409"/>。死後実際には1921年生まれであることが公表され、これにより直木賞の最年長受賞記録が更新された<ref name="yomiuri20100409"/><ref name="jiji20200409"/>。
 
== 著書 ==