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==歴史==
[[File:Yasuo Mizui Kitagi Kitagi island Okayama prefecture Japan 1963.jpg|thumb|北木島中学校の水井康雄の彫刻''きたぎ'']]
海の見える小高い丘の上に[[古墳]]が3箇所現存しているので、[[古墳時代]]から人が住んでいたと思われる。[[享徳]]2年[[1453年]]に書かれた、真鍋氏系図(南東にある[[真鍋島]]に由来する豪族の系図)には「柴ノ島」とあるが、戦国末期と推定される書状には「北木」と書かれており、真鍋氏の一族が住んでいた<ref>{{Harvtxt|藤井駿 編|1988|p=826}}</ref>。江戸時代は[[1619年]]から[[備後]][[福山 (城下町)|福山]][[水野氏#江戸時代|水野氏]]の領地となったが、[[1698年]]以降は[[天領|幕府領]]となった<ref>{{Harvtxt|藤井駿 編|1988|pp=826-827}}</ref>。江戸時代[[1834年]]の[[旧国郡別石高の変遷|天保郷帳]]では北木島の取れ高は約224[[石高|石]]とされている<ref>{{Harvtxt|藤井駿 編|1988|p=1011}}</ref>。しかし江戸時代の[[検地帳]]では島の田畑のランクは低く、島の経済は[[漁業]]に依存していた<ref>{{Harvtxt|藤井駿 編|1988|p=827}}</ref>。
 
===石材の島としての北木島===
 
北木島を含む瀬戸内海の島々は良質の[[花崗岩]]を産出している。[[江戸幕府]]が[[豊臣氏]]を滅ぼした後に建造した、[[大阪城]]の[[石垣]]の巨石も[[小豆島]]などから切り出した花崗岩が使われている。この大阪城の建造に際し北木島からも石垣に用いられる石材を搬出したとされる<ref>{{Harvtxt|藤井駿 編|1988|p=827}}</ref>。江戸時代末の[[1863年]]には、[[京都]]を[[鎖国#開国までの動きと鎖国の終焉|異国の侵略]]から守るために建造された「[[西宮砲台|西宮お台場砲台]]」の石材を供出<ref>{{Harvtxt|元気ユニオンin北木 編|1996|p=135}}</ref>。[[1879年]]には[[横浜正金銀行]]の石材を受注<ref>{{Harvtxt|元気ユニオンin北木 編|1996|p=136}}</ref>、[[1896年]]には北木島の石材を使用した[[日本銀行本店]]が竣工し、建築用石材としての[[北木石]]の名が広まる<ref>{{Harvtxt|元気ユニオンin北木 編|1996|p=137}}</ref>。[[1932年]]には[[靖国神社]]の[[鳥居|大鳥居]]と[[石灯籠|大石灯籠]]の石材を積み出した<ref>{{Harvtxt|元気ユニオンin北木 編|1996|p=137}}</ref>。[[第二次世界大戦]]をはさむしばらくの期間、石材産業は一次衰退したが、戦後の[[高度経済成長#日本の高度経済成長期|復興・経済成長期]]には再度著しく発展した。最盛期の[[1957年]]には花崗岩を採掘する丁場の数が127箇所あった<ref>{{Harvtxt|元気ユニオンin北木 編|1996|p=178}}</ref>。