「メッサーシュミット Me262」の版間の差分

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本機は、機首下面に1tまでの兵装を外部に搭載可能であったが、これにより機体の重心位置が移動する問題があった。そのため爆撃任務はきわめて危険な任務となり、実戦では、その防止のため、250kg爆弾を2発しか搭載できず、爆撃照準器も装備していないため、爆撃機としては不満足なものであった。Me262の戦闘爆撃機型であるA-2a型は1944年8月末に北フランスにおいて作戦を開始し、その後[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]にも参戦したが、満足な戦果を上げていない、だが、戦闘爆撃機型は戦闘爆撃機部隊により敗戦まで細々と続けられた。
 
ガーランドはジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ガーランドはMe 262を本土防空用'''戦闘機'''と位置づけて編成を進めていた。1943年12月にはガーランドの主張により、ヒトラーに20機に1機の割合で戦闘機型の生産を認めさせて、それにより、ジェット戦闘機の戦術を開発する目的の実験部隊が編成された。1944年7月26日には、英空軍[[デ・ハビランド モスキート|モスキート]]を撃墜してジェット戦闘機初戦果を記録した。(実際はモスキートの側面扉が風圧で破壊され、飛んで行ったものをMe262のパイロットが誤認しただけであった)その後、ヒトラーは戦闘機型のみ生産されていることをミルヒの報告から知って激怒し、[[1944年]]5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみ生産させた(ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている)。しかし、米英空軍のドイツ本土爆撃がさらに激しくなると、ヒトラーは爆撃機型の生産を中止して戦闘機型のみ生産する命令を出した。
 
戦闘機型のA-1a型は、1944年8月から空軍に引渡しが開始された。9月には、[[ヴァルター・ノヴォトニー]]少佐を隊長としたMe262の実戦部隊「コマンド・ノヴォトニー」が編成され、10月から作戦を開始した。同部隊は米英空軍爆撃機を迎撃し戦果を上げたが、11月18日には、隊長であるノヴォトニー少佐が、同部隊を視察に訪れたガーランドの眼前で撃墜され戦死してしまう。その後、同部隊は第3戦闘航空団(JG3)と第54戦闘航空団(JG54)との間で再編され第7戦闘航空団(JG7)となり、同年11月からは、夜間レーダーのFuG218ネプトゥーンレーダーを装備した複座夜間戦闘機型のB-1a/U1を装備した部隊「コマンド・シュタンプ」が作戦を開始している。空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは後に戦闘機隊総監の地位を解任されたが、大戦末期の[[1945年]]1月にはMe262が優先的に配備された[[第44戦闘団]](JV44)を編成してその司令官となり、メッサーシュミット社の故郷であるバイエルン州を中心に作戦を開始している。