「白河の関」の版間の差分

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== 概要 ==
 
その設置の年代は不明である。[[六国史]]における'''白河'''の初出は[[718年]]([[養老]]2年)[[5月2日 (旧暦)]]に[[陸奥国]]から「白河」など5郡を分割して[[石背国]]を設置するという記事で、その後[[728年]]([[神亀]]5年)[[4月11日 (旧暦)]]には白河軍団の新設<ref>白河軍団の新設と同時に丹取軍団を玉作軍団に改めるとある。</ref>を許可、そして[[769年]]([[神護景雲]]3年)[[3月13日 (旧暦)]]には陸奥国大国造[[道嶋嶋足|道嶋宿祢嶋足]]の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、[[白河郡]]では丈部某と大伴部某がそれぞれ[[阿部陸奥臣]]および[[阿部会津臣]]を授かっている。また[[780年]]([[宝亀]]11年)[[12月22日 (旧暦)]]には[[鎮守府将軍|陸奥鎮守府副将軍]]の[[百済王俊哲]]が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。
承和2年(835)の太政官符「類聚三代格」に白河、菊多(勿来)の関を設置して以来、四百余年とあることから、この記述が正しいとすれば、4世紀末から5世紀頃には大和朝廷による東北経営の前線拠点として存在していたことになる。
 
その設置の年代は不明である。[[六国史]]における'''白河'''の初出は[[718年]]([[養老]]2年)[[5月2日 (旧暦)]]に[[陸奥国]]から「白河」など5郡を分割して[[石背国]]を設置するという記事で、その後[[728年]]([[神亀]]5年)[[4月11日 (旧暦)]]には白河軍団の新設<ref>白河軍団の新設と同時に丹取軍団を玉作軍団に改めるとある。</ref>を許可、そして[[769年]]([[神護景雲]]3年)[[3月13日 (旧暦)]]には陸奥国大国造[[道嶋嶋足|道嶋宿祢嶋足]]の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、[[白河郡]]では丈部某と大伴部某がそれぞれ[[阿部陸奥臣]]および[[阿部会津臣]]を授かっている。また[[780年]]([[宝亀]]11年)[[12月22日 (旧暦)]]には[[鎮守府将軍|陸奥鎮守府副将軍]]の[[百済王俊哲]]が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。
 
こうしたことから、[[ヤマト王権|ヤマト]]の軍事的要衝としての白河関の機能は[[平安時代|平安]]中期には解消したものと考えられている。[[源頼朝]]が[[奥州藤原氏]]を滅ぼす[[奥州合戦]]の際に、頼朝が白河に達した時に、[[梶原景季]]に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。[[1800年]]([[寛政]]12年)、[[白河藩]]主[[松平定信]]は文献による考証を行い、その結果、[[白河神社]]の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。