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[[近世]]には、大坂城下へ[[野菜]]などを供給する「畑場八ヶ村」の一画を占めた。難波村は[[アイ (植物)|藍]]、今宮村は[[蕪]]・[[瓢箪]]、木津村は[[瓜]]・[[大根]]・[[菠薐草]]などが名産であった。<!-- なお、難波村で[[ネギ|ねぎ]]がよく取れたため、「なんば」がねぎの代名詞となったと言われるが、そのような記録はない。 -->これらの野菜類は[[天満青物市場]]まで持ってゆく決まりであったが、[[旧淀川]]以北の[[天満]]は城下南郊に位置する畑場八か村から遠く不便であった。農民達は道頓堀川付近に市を建てたり自前で売ろうとして、天満商人と対立した。その後、[[1809年]](文化6年)に13品目限定で難波木津市場が開設されるに至った。<!-- また、天満組附属地の渡辺村(町村制以降の西浜町)は皮革産業や太鼓の製造で栄えたが、同時に被差別集落でもあった。 -->
 
[[明治]]時代以後は[[1885年]](明治18年)に阪堺鉄道(後の[[南海電気鉄道|南海鉄道]])の[[難波駅 (南海)|難波駅]]が、[[1889年]](明治22年)には大阪鉄道(後の[[関西鉄道]]、現在の[[西日本旅客鉄道]])の湊町駅(現在の[[JR難波駅]])が開業し、奈良県や和歌山県の木材や農産物などが集まった。木津には大きな[[市場]](現在の[[木津卸売市場|木津地方卸売市場]])ができ、日本橋以南の[[堺筋]]は[[松坂屋]]ほか商店、古物商や古本屋が軒を並べる繁華街となった。また[[1903年]](明治36年)の第5回[[内国勧業博覧会]]以後は[[新世界 (大阪)|新世界]]がレジャーセンターになるなど遊興地としても栄えた。一方、市街地の拡大に伴い、大正時代には堺筋の裏側に長町スラムが広がっていたため、当時の大阪市は画期的な鉄筋アパート<ref>下寺住宅・日東住宅などの通称「軍艦アパート」。</ref>を建設するなどこの地域の社会改善、住宅改良に力を入れた。スラムは[[西成区]][[釜ヶ崎]]に移転し、現在の[[あいりん地区]]となった。
 
戦後は日本橋(恵美須町)が焼け野原から電気街として繁栄したが、産業構造の変化などに伴い中小企業や工場主体の地域の活力は落ち始めた。この地域にあった[[大阪スタヂアム|大阪球場]]や[[クボタ]]の工場、湊町駅の[[貨物駅]]などが相次いで再開発の対象となった。[[バブル崩壊]]後、これらの再開発は足踏みしたが、2000年代以降には超高層マンション群やオフィスビル、商業施設の開発が行われている。また中小工場の廃業が相次いだほか、日本橋では[[郊外]]の大規模電気店・[[梅田]]への[[ヨドバシカメラ]]出店などの影響で多くの家電店が撤退に追い込まれ、[[オタク]]向けの街へと変貌している。新世界は繁華街としてはすっかり老朽化したが、戦後の雰囲気を色濃く残すため観光に来る人も多い。