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[[476年]]に[[西ローマ帝国]]が滅びるとゲルマン人の一部族である[[フランク族]]の[[クロヴィス1世|クローヴィス]]が建国した[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]が勢力を伸ばし始めた。[[508年]]にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族は[[キリスト教]]とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後は[[ピピン3世]]が[[カロリング朝]]を打ち立て、[[カール・マルテル]]は732年に[[イベリア半島]]から進出してきた[[イスラーム]]勢力の[[ウマイヤ朝]]を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で破り<ref>フランス側は劣勢であったが、突如としてイスラム勢力が姿を消したために、防衛に成功した。理由は今も謎であり、巡礼の月が回ってきたとも、政変によるものとも諸説あるがハッキリしない。</ref>、イスラーム勢力の[[西ヨーロッパ]]方面への拡大を頓挫させた。
 
[[カール大帝|シャルルマーニュ]](カール大帝)はイスラーム勢力や[[アヴァール族]]を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、[[イベリア半島]]北部から[[イタリア半島]]北部・[[パンノニア平原]](現在の[[ハンガリー]]周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、[[カロリング・ルネサンス]]が興った。800年にシャルルマーニュは[[西ローマ帝国]]皇帝の称号を[[ローマ教皇]]から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂した([[西フランク王国]]・[[中フランク王国]]・[[東フランク王国]])。[[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー]]の見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・[[イタリア]]・[[ドイツ]]の基礎となった。また、この時期に[[古フランス語]]の形成が始まった。
 
909年[[クリュニー修道院]]が創建された。後に[[モーゲージ]]関係史料を多数残した。933年、[[アルル王国]]が成立した。西フランク王国は[[ロテール (西フランク王)|ロテール3世]]のときに群雄割拠し、987年パリを[[神聖ローマ帝国]]に攻められるほど不安定であった。