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'''上町台地'''(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_UE_pdf/UE_03_uemachi.pdf |title=上町台地とその周辺低地における地形と古地理変遷の概要 |format=PDF |publisher=大阪文化財研究所 |accessdate=2015-12-11}}</ref>。
 
北部は[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[難波宮]]跡、[[大阪城]]付近・[[天満橋]]の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、[[天王寺区]][[上本町]]の[[大阪上本町駅]]付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって[[阿倍野区]]周辺を経て、南部の[[住吉区]]・[[住吉大社]]付近に至り、その辺りでほぼ平地になり[[清水丘]]を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。[[大阪]](大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。
 
== 上町台地の範囲と成り立ち ==
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== 上町台地開発と大阪の歴史 ==
[[ファイル:Arial View of Shitennō-ji.jpg|thumb|四天王寺伽藍図]]
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地の先端に[[生國魂神社]]があり、西日本各地や中国・朝鮮との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。昭和62年([[1987年]])夏、上町台地の北端で[[古墳時代]]の[[5世紀]]後半と推定される[[掘立柱建物|高床式倉庫群]]が発掘された。発掘された倉庫群は16棟で、東西方向に2列に並んでいる。倉庫のどれも同じ構造で、平面規模も一辺10m×9m前後と同じで、真北向きに配置されており、建物の間隔も同じである。16棟の合計床面積が約1470平方メートルもあり、租税としての米を[[籾]]で入れるのか稲束で入れるのかの違いがあるが相当大きな収容量であったと推測される。5世紀に突然、上町台地の北端に大規模倉庫群が立てられたのか疑問が残る<ref>この倉庫群の項は、南英夫「五世紀の大倉庫群」財団法人大阪市文化財協会編『大阪遺跡--出土品・遺構は語るなにわ発掘物語』創元社 [[平成]]20年([[2008年]]) 155頁</ref>。この遺構は「法円坂遺跡」として国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡」の「附」(つけたり)としての指定)<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000168/168280/kousouan06.pdf 史跡難波宮跡整備基本構想(案)]、p.18(大阪市サイト)</ref>。
 
本格的に開けたのは[[古墳飛鳥時代]]からである。[[仁徳天皇]]は難波に都を定め『[[日本書紀]]』には[[推古天皇]]元年([[593年]])、[[聖徳太子]]が[[四天王寺]]を難波の荒陵(あらはか)に建立するとある。以後、四天王寺の西大門から[[難波津]]に沈む夕日を望む[[西方浄土]]信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ[[浄土信仰]]の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった[[渡辺津]](今の[[天満橋]]周辺)で船を下り、そこが[[熊野街道]]の基点であった。四天王寺から熊野街道、[[庚申街道]]などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、[[嵯峨源氏]]の源綱([[渡辺綱]])を祖とする[[渡辺氏]]をはじめとする[[武士]]団の生まれた場所でもあり、彼らの[[水軍]]の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。
 
ちなみに[[大阪|大坂]]とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。