「ウラジオストク」の版間の差分

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== 日本との関係 ==
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ウラジオストクと日本の関係はウラジオストク創設の[[1860年]]以降に始まる。まず1871年にはウラジオストク-長崎間に電信線が開通した<ref name=":0">[https://russia.jw-ji.com/information/region-information/ 日本とウラジオストク(ロシアビザーズ)] 2017年2月24日</ref>。明治時代の日露戦争後にウラジオストクと[[敦賀港]]間に定期航路が開設されたことで日本との関係が強まっていった。やがて町の中心部(ペキンスカヤ通り、コソイ通り、スイフンスカヤ通り、フォンタンナヤ通り)に「日本人街」が出来て商業活動が活発に行われ機能していた。[[1986年]]に[[西本願寺]]はウラジオストクで初めての海外布教所として[[浦塩本願寺]]を開設したが、1904年の[[日露戦争]]で殆どの日本人が帰国したため、いったん活動を休止するしたが、戦争終結後に再開し最終的には1937年閉鎖した。当時日本からヨーロッパ方面へ行く最短ルートとして外交官や留学生などの多くが[[ウラジオストク駅]]からシベリア鉄道を利用した。[[与謝野晶子]]も夫の[[与謝野鉄幹]]が[[パリ]]に滞在している時に夫の居るパリに行くために[[1912年]]5月に[[ウラジオストク駅]]から[[シベリア鉄道を利用]]に乗車ている。[[極東連邦大学]]の敷地内には、その記念碑がある。[[1915年]]当時[[カチューシャの唄]]で一世を風靡した有名女優の[[松井須磨子]]と、愛人関係にあった演出家[[島村抱月]]はウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。1918年の[[ロシア革命]]以前には、町の中心部(ペキンスカヤ通り、コソイ通り、スイフンスカヤ通り、フォンタンナヤ通り)に「日本人町」という自主的な区域が活発に機能していた。ロシア革命後に[[ソビエト連邦]]による[[共産主義]]体制が成立したもののウラジオストクなどのロシア極東には、すぐには統治が及ばず、そこへ日本を中心とした列強国による干渉戦争[[シベリア出兵]]により日本から軍艦がウラジオストク港へ到着し、伸べ7万3千人の日本軍が上陸し[[バイカル湖]]に近い[[イルクーツク]]以東を約4年間占領したが、その日本軍人に対し、ウラジオストク在住の日本人が商売を行った。またロシア革命により多くの[[白系ロシア人]]がウラジオストク港から船で日本へ亡命してきた。また、ウラジオストクは[[シベリア出兵]]後の1918-1922年には日本によって占領地域の一部となり軍事衝突もあり、日本出兵部隊の本部が現在の沿海地方内務局ビル内に駐屯していた。[[1920年]]頃(大正9 - 10年頃)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本人による商店や企業が多数進出し[[横浜正金銀行]]や[[松田銀行部]]、[[朝鮮銀行]]の支店、杉浦商店などの商社が営業していたが、やがて共産主義者による[[パルチザン]]の抵抗が強まり、シベリア出兵の日本軍は撤兵を余儀なくされ、共産主義政権の統治が強化されるにつれ、日本人の殆どが帰国の途についた<ref name=":0" />。また第二次大戦後には、ナベレジナヤ通りのロタンダや「ディナモ」競技場は日本人の捕虜兵士によって1945~1950年代に建設された。
 
しかしその後の東西冷戦期のウラジオストクは、前述のように高度な軍事機密に関わる軍港として閉鎖都市となり、日露(日ソ)間の航路もナホトカに移動され、他の全ての外国人と同様、日本人にとって、ウラジオストクを訪れることができない状態がソ連崩壊後まで続いた。