「パトリシア・ヒー=ブーレ」の版間の差分

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彼女は6歳半の時に、家族とともに[[カンボジア]]を離れて[[香港]]に引っ越した。パトリシアの妹が家族から8年間も引き離されるという不幸の中で、彼女は8歳から[[テニス]]を始め、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]の「ブレイデントン・アカデミー」に留学した。[[1981年]]、彼女は16歳で女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ|フェデレーションカップ]]に[[香港]]代表選手として初出場したが、これが香港のフェデレーション杯初参加だった。[[1983年]]の[[1983年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]ジュニア女子部門で、ヒーはジュニア女子シングルス準優勝・女子ダブルス優勝を記録した。ダブルス優勝パートナーの[[パティ・フェンディック]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])とは、プロ転向後もペアを組むことがあった。それから2年間[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]で学び、[[1986年]]からプロテニス選手になる。[[1987年]]の[[1987年全豪オープン|全豪オープン]]で、ヒーは[[日本]]の[[井上悦子]]とペアを組み、第1シードの[[マルチナ・ナブラチロワ]]&[[パム・シュライバー]]組との準決勝まで進出した。井上とは同年の[[1987年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1987年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でもペアを組んだが、どちらも初戦敗退に終わってしまう。1987年は、2大会で[[柳昌子]]とペアを組んだこともある。[[1991年]]7月17日、ヒーは[[カナダ]]市民権の取得を認められ、フェデレーションカップにもカナダ代表選手として参加資格を得た。
 
カナダ市民権を取得した後、ヒーはようやくテニス経歴を軌道に乗せ、[[1992年全仏オープン]]で[[ガブリエラ・サバティーニ]]との4回戦に進出した。[[1992年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも[[ジェニファー・カプリアティ]]との3回戦に進み、[[1992年バルセロナオリンピックにおけるテニス競技|バルセロナ五輪]]にもカナダ代表選手として初出場を果たす。この年の[[1992年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で、ヒーは[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]シングルスの自己最高成績を出し、ベスト8に勝ち進んだ。3回戦でカプリアティ、4回戦で[[ヘレナ・スコバ]]を破ったヒーは、初進出の準々決勝で第1シードの[[モニカ・セレシュ]]に 1-6, 2-6 で敗れた。[[1993年]]3月、彼女は世界ランキングの自己最高位「28位」を記録する。[[1994年]]11月19日にコーチのイブ・ブーレと結婚し、その後は2つの姓を併用して「パトリシア・ヒー=ブーレ」と名乗った。
 
結婚生活に入った後、ヒー=ブーレはウィンブルドンで[[1996年ウィンブルドン選手権|1996年]]・[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年]]の2年連続で4回戦に進出した。[[1996年アトランタオリンピックにおけるテニス競技|1996年アトランタ五輪]]では、2度目のオリンピック出場も果たし、シングルスは2回戦で[[モニカ・セレシュ]]に敗れたが、[[ジル・ヘザリントン]]と組んだダブルスで準々決勝に進出した。同年の[[1996年全米オープン (テニス)|全米オープン]]では、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[ロザリン・フェアバンク|ロザリン・ニデファー]]と組んだ女子ダブルスで準々決勝に進み、9年前の[[1987年全豪オープン]]女子ダブルスで[[井上悦子]]と組んだベスト4以来、久々のダブルス上位進出を決めた。ヒー=ブーレとニデファーは、準々決勝で[[マルチナ・ヒンギス]]&[[ヘレナ・スコバ]]組に 4-6, 4-6 で敗れた。同大会のシングルスでは、1回戦で[[ガブリエラ・サバティーニ]]に敗れた。(サバティーニはこれが最後の4大大会出場となり、同年末に26歳で現役を引退した。)
 
彼女の最後の活躍は、[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年ウィンブルドン]]の4回戦進出である。32歳を間近に控えていた彼女は、2年連続の4回戦で[[ヤユク・バスキ]]([[インドネシア]])に 0-6, 6-7 で敗れた。[[1998年全米オープン (テニス)|1998年全米オープン]]の予選1回戦敗退を最後に、パトリシア・ヒー=ブーレは33歳で現役を引退した。[[2004年]]7月25日に「カナダテニス殿堂」入りを果たしている。